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京都・梨木神社。
[ ◆京都府 -洛内 ] / 2008年11月30日
心願成就

梨木神社

(なしのきじんじゃ)
京都市上京区寺町通広小路上ル染殿町680


通 称
萩の宮




〔御祭神〕
三條実萬卿
(さんじょうさねつむ)
三條実美卿
(さんじょうさねとみ)



 応仁の乱など、長く続いた戦乱によって疲弊していた京都は、戦国の世を統一した豊臣秀吉公の手によって大きく復興されました。京都御所の東側を南北に走る東京極大路(富小路通とも)と呼ばれた道の東には、洛中に点在していた寺院を強制的に移転させて「寺町」と呼ばれる寺院街が形成されました。そして、寺町から道を挟んで西側、京都御所との間には公家たちの屋敷が集められて公家町が形成されていましたが、その公家町の一角には、明治維新に活躍した三條実萬卿と三條実美卿父子を輩出した名門・三條家の邸宅もありました。美しい萩の花が咲き誇ることから「萩の宮」の別称でも人々に愛されている梨木神社は、この三條家の邸宅跡に建てられた神社です。ちなみに、毎年9月の中旬から下旬頃に行われる「萩まつり」では、境内に咲き乱れる美しい萩に囲まれる中、献華式や狂言・舞などが奉納されるなど、多くの参拝客で賑わいを見せています。



 
幾何学模様の石畳の参道(左)と、楼門(右)。秋には美しい萩の花に包まれます。



 梨木神社は、明治維新に多大な貢献をした三條実萬卿と三條実美卿父子を御祭神とする神社です。三條実萬卿は、光格天皇仁孝天皇孝明天皇の3帝に仕え、その英明さから菅原道真公の生まれ変わりと賞されて当時の人々から「今天神」と呼ばれた人物です。早い時期から「王政復古」の大義を唱えて明治維新に多大な影響を与えた三條実萬卿は、1848(嘉永元)年に朝廷と幕府との意思疎通を図る役職である「武家伝奏」に就き、外交などについて何度も江戸幕府と交渉するなど活躍していました。

 しかしながら、幕府の対外政策に反対する者たちが一斉に弾圧された1859(安政6)年の「安政の大獄」によって謹慎の処分を受け、「澹空」と号して出家し、表舞台から引退することとなります。その年に58歳で亡くなった三條実萬卿の生前の功績に対し、1869(明治2年)には明治天皇より「忠成公」の諡が贈られ、1885(明治18)年には三條家の邸宅跡に地名の「梨木町」にちなんで「梨木神社」が創建され、別格官幣社の社格が与えられました。その父の遺志を継いで明治維新の実現に奔走した息子・三條実美卿も、その功績を讃えられて1915(大正4)年に行われた大正天皇即位御大典の際に合祀されました。



 
「萩まつり」ではこの拝殿で舞や狂言が行われます(左)。右の写真は本殿です。



 梨木神社の境内には、醒ヶ井県井と並んで「京都三名水」と呼ばれた染井があります。この井戸は、平安時代初期に活躍した藤原良房卿の娘で文徳天皇の皇后となった藤原明子の里御所だった清和院の跡にあったもので、京都御所の傍にあって水質も極上であることから宮中御用の染所として利用されたために「染殿」とも呼ばれていました。「京都三名水」の中で唯一、現在も清らかな水が湧き続けている井戸で、多くの方々がこの清水を汲むために列を成しています。



 
今も清水が湧き続ける「染井の水」(左)と、「天壌無窮」と刻まれた石碑(右)。



アクセス
・京阪電車「出町柳駅」下車、南へ徒歩15分
・京阪電車「丸太町駅」下車、北へ徒歩20分
・京都市バス1・3・4・59・205・快速205系統ほか「府立医大病院前」バス停下車、西へ徒歩3分
梨木神社地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
  梨木神社ホームページ


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宇治・橋寺放生院。
[ ◆京都府 -洛外 ] / 2008年11月26日


雨宝山 放生院 常光寺

(うほうざん ほうじょういん じょうこうじ)
京都府宇治市宇治東内11

通 称
橋 寺





〔宗派〕
真言律宗

〔御本尊〕
地蔵菩薩像
(じぞうぼさつぞう)



 古代より、北陸道から奈良・平城京を繋ぐ道として多くの旅人たちを見守ってきた奈良街道。宇治川に架かる宇治橋は、宇治を抜ける奈良街道を繋ぐ交通の要衝として重要な役割を果たしてきました。その宇治橋の東、京阪電車「京阪宇治駅」から歩いてすぐのところに、「宇治橋の守り寺」として人々の崇敬を集めてきた寺院があります。正式名称を「雨宝山放生院常光寺」というこの寺院は、通称「橋寺」もしくは「橋寺放生院」という名で広く親しまれている真言律宗の寺院です。




1631(寛永8)年の火災ののち再建されたといわれる本堂。



 橋寺の創建に関しては2つの説が伝えられています。ひとつは、優秀なブレーンとして聖徳太子から厚い信頼を寄せられていた秦河勝が、604(推古天皇12)年に聖徳太子の念持仏である地蔵菩薩像を祀る寺院として宇治川のほとりに建てた常光寺地蔵院橋寺の前身だという説。もうひとつは、646(大化2)年に大和国・元興寺(当時は法興寺と呼ばれていた)の僧侶・道登上人が初めてこの地に宇治橋を架けた際、工事の安全祈願のために川の傍に立っていた地蔵院の建物を造り替えたのを創建とする説です。

 当時は治水技術などもまだまだ十分なものではなく、大雨などのたびに激しい洪水に見舞われて何度も橋が流されるなどの被害が続き、宇治川のほとりにあった地蔵院も徐々に衰退していきました。そんな地蔵院の再興を行ったのが、鎌倉時代後期の真言律宗の高僧・叡尊上人です。大和国・西大寺の僧侶だった叡尊上人は、地蔵院の本尊・地蔵菩薩像が激しく損傷していたことに心を痛め、1281(弘安4)年に新たに大きな地蔵菩薩像を造り、傷ついていたそれまでの地蔵菩薩像をその胎内に納めて地蔵院を再興しました。

 さらに叡尊上人は、1286(弘安9)年に行われた宇治橋の再建に際し、宇治川の氾濫などで命を落とした人馬・魚介類などすべての菩提を弔うため、中州にある浮島に高さ約15mの巨大な十三重石塔を建立して供養のための盛大な放生会を営みました。このことに因んで地蔵院のことを「放生院」と呼ぶようになり、さらに叡尊上人の慈悲に溢れた思いに感銘を受けた後宇多天皇によって300石の寺領を与えられ、宇治橋や十三重石塔の管理を一任されたことから、「橋寺」とも呼ばれるようになりました。



 
国の重要文化財に指定されている宇治橋断碑(左)と、境内に立つ橋掛け観音像(右)。



 境内には、瀬田川に架かる「瀬田の唐橋」、淀川を跨いで架けられていた「山崎橋」と並び、「日本三古橋」の一つである宇治橋の創建当時の経緯を刻んだ宇治橋断碑が立っています。天平時代に造られたといわれている宇治橋断碑は、もともと宇治橋の傍に立てられていたそうですが、宇治川の氾濫などでいつしか地中に埋没していました。この碑が境内の地中から発見されたのは、1791(寛政3)年のことでした。残念ながら、上の1/3の部分しか見つかりませんでしたが、鎌倉時代に記された史書「帝王編年記」にあった原文をもとに復元が行われ、1793(寛政5)年に現在の姿に修復されました。

 碑文には「名は道登と曰う。山尻恵満の家より出づ。大化2年丙午の歳、此の橋を構立す」と刻まれてあり、宇治橋が646(大化2)年に架けられていたことが分かります。この宇治橋断碑は、群馬県で発見された「多胡碑(たこのひ)」、宮城県で発見された「多賀城碑」とともに日本三古碑の一つといわれ、国の重要文化財に指定されたことから木造の覆屋の中に納められて保護されています。



 
石段を登った正面にある十二支守本尊像(左)と、近年建てられた石塔(右)。



アクセス
・京阪電車「京阪宇治駅」下車、南東へ徒歩2分
・JR奈良線「宇治駅」下車、東へ徒歩10分
橋寺放生院地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料(仏像観賞:300円、断碑観賞:200円) ※断碑の公開は3〜5月、9〜11月のみ

拝観時間
・9時〜16時30分(冬季は9時〜16時まで)


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明石・法寫山善楽寺。
[ □兵庫県 -東播磨 ] / 2008年11月24日

法寫山善楽寺

(ほうがたさん ぜんらくじ)
兵庫県明石市大観町11−8





善楽寺の山門。善楽寺は、戒光院・圓珠院・実相院の3院で構成されている寺院です。



 善楽寺は「大化の改新(乙巳の変)」などで知られる大化年間(645)に、インドの高僧である法道上人の開基によって創建されたといわれています。この寺伝に基づくと、明石では最古の寺院となります。平安時代中期の990(正暦元)年には、天台宗の高僧・源信(恵心僧都)が姫路の書写山からの帰りに善楽寺に立ち寄り、自ら彫りあげた虚空蔵菩薩像を実相院に安置されたといわれていますので、やはり1,000年以上の歴史を持つ古刹であることは確かなようです。残念ながら、源信の彫った仏像はさきの大戦中の空襲によって焼失してしまいました。



 
善楽寺を構成する戒光院の本堂(左)と、東に並ぶ圓珠院(右)。


 
 1119(元永2)年に火災によって焼失しますが、保元の乱に勝利して播磨守に任じられるなど朝廷内での発言力を伸ばしていた平清盛公の手によって、1156(保元元)年に伽藍の再興が行われました。この地を重視視した平清盛公は、念持仏だった木造地蔵尊像と寺領500石を寄進するなど善楽寺に対して手厚い庇護を行いました。1182(養和元)年に平清盛公が亡くなった際には、その死を悼んで当時善楽寺の寺僧であった甥・忠快法印上人によって供養のための大きな五輪塔が建てられています。

 このような庇護もあり、平安時代の末期には17の塔頭を持つなど明石川の東岸一帯を境内とし、天台宗の最高位である天台座主を輩出するほどの大寺院となった善楽寺ですが、1539(天文8)年には、前年に始まった尼子詮久公の播磨侵攻によって一旦淡路島に撤退していた赤松政村公が、細川持隆公の支援をもとに岩屋に上陸して反撃を開始、善楽寺もその兵火に巻き込まれて全焼してしまいます。 



 
『源氏物語』の明石入道の碑(左)と、再建に貢献した平清盛公の供養塔(右)。



 その後1593(文禄2)年に再建された善楽寺は、1619(元和5)年に明石藩主・小笠原忠真公によって寺領を安堵する黒印状を与えられ、諸役の免除が行われました。ちなみに、領地の安堵を幕府が行う際には朱色の判が用いられたので「朱印状」、諸大名からの安堵の場合は黒色の判が用いられたので「黒印状」と呼ばれていました。この前年の1618(元和4)年には、小笠原忠真公の客分として明石に入り、明石城の築城や城下町の町割りに辣腕を揮っていた剣豪・宮本武蔵公の手によって圓珠院の本堂前に枯山水庭園が作庭されています。

 明石藩第5代藩主・松平忠国公が『源氏物語』の世界に思いを馳せて「明石入道の碑」を建てるなど、歴代明石藩主の厚い庇護のもとに歴史を連ねてきた善楽寺ですが、1871(明治4)年に起こった火災によって三重塔を焼失、1945(昭和20)年7月にはアメリカ軍による空襲によって境内を焼失するなど大きな打撃を受けて寺域も縮小、現在では、戒光院圓珠院実相院の3院で構成する寺院として法灯を守り続けています。



 
1618年に宮本武蔵が作庭した枯山水庭園(左)と、南に隣接する実相院(右)。



 善楽寺は『源氏物語』の登場人物・明石入道の「浜辺の館」があった地とされ、境内には「明石入道の碑」が建てられています。『源氏物語』の第12帖「須磨の巻」で、スキャンダルによって都から逃れ、須磨で失意の日々を過ごす主人公・光源氏が、明石入道とその美しい娘・明石の君の噂を聞くところから明石にまつわるエピソードは始まります。続く「明石の巻」で、夢枕に立った亡き父皇・桐壺帝の言葉に従って須磨を離れ、迎えに現れた明石入道の誘いを受け入れた光源氏が招かれた邸宅・浜辺の館があった場所が、善楽寺のあるこの地だとされ、ここで光源氏明石の君と恋に落ちることとなります。




アクセス
・JR「明石駅」下車、南西へ徒歩15分
・山陽電車「西新町駅」下車、南へ徒歩10分
法寫山善楽寺地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

公開時間
・不明


「ひょうごツーリズムガイド」紅葉特集





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宇治・縣神社。
[ ◆京都府 -洛外 ] / 2008年11月22日
縁結び・安産・商売繁盛・家内安全・病気平癒

縣神社

(あがたじんじゃ)
京都府宇治市蓮華72



宇治を訪れた人が一度は目にする大鳥居。この道をひたすら歩くと縣神社に辿り着きます。


〔御祭神〕
木花開耶姫命
(このはなさくやひめのみこと)



 JR宇治駅を降り立ち、宇治橋通商店街を抜けて茶の香り漂う平等院の表参道へと向かう交差点まで来ると、巨大な石造りの明神鳥居が圧倒的な存在感をもってそびえ立っています。車道をひと跨ぎし、隣接するビルにもあと少しで接するのではないかという大きな笠木を持つこの大鳥居は、平等院の南西に位置する古社・縣神社に連なる参道へと導いてくれます。



 
縣神社の石鳥居(左)と、参道の左手に並ぶ摂社(右)。東位稲荷大明神や天神社の
奥には「縣祭」で用いられる「梵天」が祀られています。



 宇治を代表する古刹・平等院の裏鬼門の方角・南西に位置する縣神社は、山の神である大山祇神(おおやまづみのかみ)の娘で、高天原より降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚して日嗣の皇子を産んだ女神・木花開耶姫命を御祭神に祀る神社です。神社名である「」の由来は2説あり、ひとつは木花開耶姫命の別名である「吾田津姫(あがたつひめ)」からついたという説、もうひとつは古代の行政区で朝廷の直轄地だった宇治県の守護神として祀られていたことからついたという説があります。




桧皮葺の本殿は江戸時代に再建され、拝殿は1936(昭和11)年に再建されました.。



 神代の頃からの地主神だとされており、藤原道綱母が975(天延3)年ごろに書き上げたといわれる『蜻蛉日記』には宇治の「縣の院」に訪れたエピソードが書かれている事から、少なくとも1,000年以上の歴史を持つ古社だといわれています。1052(永承7)年に藤原頼通卿が父の遺した別荘・「宇治殿」を寺院に改めて平等院を開創した際には、宇治神社宇治上神社の前身である「宇治離宮明神」と並んで鎮守社とされました。

 平等院の開山が三井寺(園城寺)の長吏や天台座主も務めたことのある高僧・明尊上人だった関係から、明治維新に至るまでは滋賀県大津市にある三井寺円満院の管理下にありました。春の大祭には円満院の院主が毎年宇治を訪れて国家安康の護摩法要を行っていたそうですが、明治維新の後に出された神仏分離令によって三井寺から独立したそうです。



 
社殿の左手にある「木の花桜」(左)と、右手にそびえ立つ見事なムクノキ(右)。



 縣神社は、「縣祭」と呼ばれる奇祭が行われることでも有名です。縣祭は江戸時代に始まったといわれるお祭りで、毎年6月5日の夜から6日の未明にかけて行われる事から「暗夜の奇祭」という別名を持ち、神が乗るとされる「梵天」と呼ばれる祭具を神輿に乗せて練り歩きます。当日は通りに露店が立ち並び、10万人を越える人々で賑わいます。しかし、現在は梵天の渡御を巡り、地元の人々が中心となって支える縣神社側と、大阪の堺や兵庫の姫路などの氏子たちが中心となって支える県祭奉賛会が対立し、それぞれが梵天を用意して分裂開催を行う残念な事態となっています。

 もともと梵天は、宇治神社にある御旅所を出発し、縣神社で「神移し」神事を行って神さまをお乗せしたのち、宇治神社へと巡行。そして、最終的には縣神社まで帰ってきて神さまを戻す「還幸祭」を行う事になっていますが、2003(平成15)年の梵天渡御の際に「還幸祭」が行われなかった事から、以前からギクシャクしていた両者の対立が決定的となり、翌年から分裂開催となったそうです。

 また、旧宇治郡の氏神である宇治神社旧久世郡宇治県の氏神である縣神社との御祭神を巡る長年に渡る対立や、南北朝の争乱期に平等院周辺を焼き払った楠木正成公や、応仁の乱の際に宇治を蹂躙した畠山勢など、歴史的に虐げられてきた宇治の人々が畿内勢力や他所者に対して持つ潜在的なアレルギーなども、地元以外の大阪・兵庫の人々で構成されている県祭奉賛会との対立に影響を与えているような気がします。



 
参道右手に立つ祖霊社(左)と、境内で飼われている、おとなしくてマイペースなわんこ(右)。



アクセス
・JR奈良線「宇治駅」下車、徒歩10分
・京阪電車「宇治駅」下車、徒歩7分
縣神社地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


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宇治・平等院。
[ ◆京都府 -洛外 ] / 2008年11月19日


朝日山平等院

(あさひさん びょうどういん)
京都府宇治市宇治蓮華116 







平安美の象徴である鳳凰堂。御本尊の阿弥陀如来像が安置されています。


〔宗派〕
天台浄土宗
(単立寺院)

〔御本尊〕
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)



 「宇治」の代名詞といっても過言ではないほど全国に名高い平等院。御本尊である阿弥陀如来坐像が安置されている本堂・「鳳凰堂」は、「観無量寿経」に記された阿弥陀如来の宮殿を模したといわれる美しい建物で、伝説上の瑞鳥・鳳凰が両翼を広げるさまを表現しています。その美しい姿は10円硬貨や新1万円札のデザインにも採用されるなど、日本を代表する建築物として国内外の人々に愛され続けています。

 都からの交通の便も良く、景観も美しい風光明媚な宇治には、平安時代から多くの貴族たちが別荘を構えていました。嵯峨天皇の12男で「河原左大臣」と呼ばれ、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルになったいわれる源融卿もその一人で、宇治川のほとりに別荘「宇治院」を築いてこの地の景色を愛していました。宇治院はその後、宇多天皇から源重信卿の手へと渡り、998(長徳4)年になって全盛期を迎えていた摂政・藤原道長卿の別荘となって「宇治殿」と呼ばれるようになります。



 
1654(承応3)年に創建された天台宗寺門派系の子院・最勝院の不動堂(左)
不動堂の脇にひっそりと祀られている源三位頼政公の墓所(右)




 藤原道長卿の没後、宇治殿は息子である関白・藤原頼通卿によって1052(永承7)年に寺院に改められ、園城寺長吏天台座主も務めたことのある高僧・明尊上人を開山に迎えて平等院が開創されました。この年は釈尊が入滅して2,000年後に訪れるといわれる「末法」の初年にあたり、仏法が廃れて世の中が荒廃に向かうのではと不安に包まれていた貴族たちの極楽往生を求める思いを体現した平等院は、「末法思想」が産んだ平安時代の浄土信仰を象徴する寺院として人々の厚い信仰を集めていました。

 創建当初は大日如来を御本尊としていましたが、翌1053(天喜元)年に現在「鳳凰堂」と呼ばれている本堂・阿弥陀堂が建立された際、平安時代を代表る仏師・定朝が彫り上げた阿弥陀如来像が御本尊とされるようになりました。阿弥陀堂が建てられた後も多宝塔や法華堂など諸堂が建てられるなど、堂々たる威容を誇る寺院となった平等院ですが、藤原氏の衰退と共に苦難の道を歩むことになります。



 
15世紀末の明応年間に創建された浄土宗系の子院・浄土院(左)と、
その境内の隅に1640(寛永17)年に建てられた羅漢堂(右)




 武士の台頭によって源氏と平家が激突した平安時代末期。平家の専横に対して全国の源氏に決起を促した以仁王源頼政公は、宇治川で平知盛公率いる平家軍と戦火を交え、戦いに敗れた源頼政公は平等院の境内で自刃して果てます。この時には直接的な被害を受けることはありませんでしたが、南北朝の対立が激化していた1336(建武3)年に宇治を戦場として足利尊氏方の畠山高国公と戦った南朝方・楠木正成公によってこの一帯に火が放たれ、阿弥陀堂を残して伽藍の大半が焼失してしまいました。

 その後も応仁の乱などの兵火によって荒廃が進み、内部でも天台宗勢力である子院・最勝院と浄土宗勢力の浄土院との間で平等院の管理運営や権益などを巡って対立が起こるなど波乱の時代を迎えますが、1680(延宝8)年頃に阿弥陀堂の再興が行われ、翌1681(天和元)年には寺社奉行の裁定によって天台宗と浄土宗の共同管理として双方の住職が交互に管理することで内部対立にも終止符が打たれます。この頃から阿弥陀堂は「鳳凰堂」と呼ばれるようになりました。

 『源氏物語』では主人公・光源氏の別荘「宇治殿」のあった場所とされ、『宇治十帖』の「椎本の巻」では宇治川のほとりに隠棲する八の宮の娘たちに興味を持った匂宮が、初瀬詣でを口実に宇治を訪れた際、光源氏から長男の夕霧に譲り渡されていた宇治殿を訪問する場面が描かれています。



 
博物館「鳳翔館」を美しく彩る紅葉(左)と、その脇に建つ養林庵書院(右)。



アクセス
・JR奈良線「宇治駅」下車、東へ徒歩10分。
・京阪電鉄「京阪宇治駅」下車、徒歩10分。
平等院地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:600円、中高生:400円、小人:300円 (鳳凰堂内部は別途300円)

拝観時間
・8時30分〜17時30分 (※受付終了:17時15分)

公式サイト
  平等院公式サイト


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