2009/01/08

加藤紘一、山崎拓、亀井静香、そして菅直人

加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎の3人を称してYKKと呼んだ。これは、当時の竹下派支配に対するアンチの象徴だった。そして小泉が退陣して登場したのが加藤、山崎に古賀誠を加えた新YKK。が、この「新」は何が新しいのかまったく分からず、単なる野合だった。
政界は権力闘争の巣窟、魑魅魍魎の世界。野合だった新YKKは早々と雲散霧消し、今度は加藤、山崎、に亀井静香、そして菅直人を加えたYKKKが政界再編の核になりそうな雲行きなんだという。新YKKが野合なら、このYKKKは何と呼べばよいのか???

加藤も山拓も亀井も菅も、全員が賞味期限の切れた政治家だ。でも、本人たちは自覚がなくて、相変わらずギラついている。が、政界も国民も、この4人には誰も期待していない。
それが本人たちには解らない。自分の醜悪な姿がね。老醜をさらして恥ずかしくないのか?と普通の人は思うのだが、政治家という生き物は「枯れる」ということを知らない。
もう吐き気がする。

ところで、今日は、当ブログで取り上げたYKKK4氏にかかわるエントリを再掲載する。
お読みいただければ、彼らの本質の一端がご理解いただけると思う。


亀井静香の闇 2005/08/10

過去、「巨悪」と呼ばれた政治家が何人かいる。数々の疑惑にまみれながらも逮捕されず、権力者としての地位を維持した者たちだ。田中角栄氏は無防備すぎて逮捕されたから、「巨悪」でありながら、そのイメージからは遠い(人間的には好きである)。
今の政治家で「巨悪」というイメージに近いのは誰か?それは亀井静香氏である。

kamei2亀井静香
1960年:東京大学経済学部卒業
1962年:警察庁入庁
警察庁入庁後は、一貫して公安畑を歩む。連合赤軍あさま山荘
事件の統括責任者
1979年:衆議院議員に初当選


亀井氏の力の源泉は何か?それは、第一に公安情報に精通していたことである。他の政治家の数々のスキャンダルを握っていた。今は、どうなのか分からないが・・・
次が「カネ」である。亀井氏は、ずいぶんと危ない橋を渡っている。もっとも有名なのが
5年前に発覚した「石橋産業事件」である。

「石橋産業事件」とは、平成8年に、闇の怪人・許永中が中堅燃料商社・石橋産業から180億円を騙し取ったというものである。この事件に絡んで逮捕された政治家は中尾栄一元建設相だけだった。しかし当時、永田町では以下のような会話が挨拶代わりに
交わされていた。
「逮捕者は、もういないようだな。どうやらヤツは逃げ切ったらしいな」「中尾栄一でおしまいか。まあ、いまの特捜じゃあ、これが精一杯だろう」
ここで、“逃げ切った”とされるのが、自民党の実力者・亀井静香政調会長(当時)なのである。なぜ、ここで亀井氏の名前が取りざたされたのか?それは亀井氏が、許永中を自らの「盟友」と公言してはばからなかったからである。
当然、中尾栄一元建設相以外に、亀井氏にも裏資金が提供されたのではないか?
それも、もっと多額の金額が?という“疑惑”が噴出したのである。
この件については、民主党の前原誠司氏が国会で追及している。

許永中、ご存知の方も多いと思うが、簡単に人物像を紹介しておこう。
彼は名前からも分かるように在日朝鮮人である。若いときは朝鮮総連の活動家で、
頭も切れ弁も立ったそうである。彼は、その後、山口組の企業舎弟になる。
許永中が有名になったのは、何といってもイトマン事件である。彼は、老舗商社・イトマンをしゃぶり尽くし、企業消滅に追い込んだ(彼はイトマン事件でも逮捕された。一審判決は懲役7年6ヶ月・罰金5億円)。
許永中は、誕生日に高級ワインを千本も贈るほど金正日と親密で、他方において韓国の政界要人にも太いパイプがあった。
亀井氏はこのような闇の大物と「盟友関係」にあったのだ。

亀井氏は、大仕手集団のリーダーとして有名だったコスモポリタンの池田保次代表とも親密だったと言われている。池田氏は、元山口組系暴力団の組長で地上げ屋に転身した後、仕手筋として成功を収めた。
しかし、その後、仕手戦に大失敗して100億円もの借金を抱え、スポンサーの暴力団に追われて失踪。いまだ生死不明の人物である。
亀井氏と、このコスモポリタンとの“疑惑”は1989年10月6日付の読売新聞が報道している。しかし亀井氏は、この疑惑を否定。“疑惑”はうやむやになったままである。

以上を読まれてどう思われるであろうか?亀井氏が何とも胡散臭い人物であることが
分かる。
このような裏世界の大物たちとの親密ぶりを疑われること自体、今の時代の政治リーダーとしての資質に欠ける。こういう政治家が総理総裁を目指すこと事態が不見識である。
このような人物に日本の政治を託すことは絶対に許されない。

亀井派は真っ二つに分裂し、脱退者も相次いでいる。会長代行の伊吹文明元労相を
担いで「伊吹グループ」を結成する動きもある。
まさに自業自得である。

参考資料1:兜町事件簿(7巻)
参考資料2:石橋産業事件
参考資料3:イトマン事件
参考資料4:第8回 亀井静香の虚像と実像
参考資料5:「Kファイル」が、 連立与党を崩壊させる!?
参考資料6:質問本文情報


加藤紘一の嫉妬と妄執 2006/07/27

【はじめに】

皆さんは、権力闘争の根底にあるものは何だとお思いだろうか?

政治だから「主義・主張」があるのは当たり前である。もちろん「欲」もある。が、「嫉妬」もかなり大きな比重を占めるのである。その「嫉妬」は、時として「怨念」に転化することさえある。

この「嫉妬」が「怨念」にまで転化し、権力闘争の軸になったことは何度もある。有名な「角福戦争」などは、その典型だろう。
そして、「嫉妬」と「怨念」が、「主義・主張」の違いを超越した政権を生み出したことも
ある。いわゆる「自・社・さ」連立政権である。
小沢一郎に対する「嫉妬」と「怨念」が、何と自民党と社会党に「連立」を選択させたのである。

「憲法改正」を綱領に掲げ、「日米安保条約の護持」を党是とする政党と、「護憲と非武装中立」を党是とし、「日米安保条約の破棄」を主張する政党が連立しする。しかも、「護憲・安保破棄」の少数派から総理大臣を選ぶ。
日本の憲政史上でも稀有な出来事だが、権力闘争においては、こういうこともありうるのだ。

もちろん、自民党の場合は政権復帰願望も大きな動機であった。権力を奪回するためには、「主義・主張」になんかかまってはいられない。
が、社会党の場合は、小沢と、彼に追従した山花貞夫などの社会党右派に対する怨念が動機であったと言ってもよい。
それは、自民党との連立を主導したのが、反自民の急先鋒だったはずの社会党左派
だったことが証明している。

(注-1)「角福戦争」
ポスト佐藤(栄作)の座を争った田中角栄と福田赳夫による、政治権力をめぐる激しい
闘いを「戦争」に例えて呼んだもの。1970年ごろから田中が倒れる1985年まで続いた。
1979年の、いわゆる「四十日抗争」が、その頂点だった。

(注-2)「自・社・さ」連立政権
自民党、社会党、新党さきがけの三党による連立政権(1994年 ~1998年)。
この政権は、理念がまったく解らない。まさに、欲と嫉妬と怨念が生み出した政権だったとしか思えない。村山 富市(首相)と河野洋平(外相) と武村正義(大蔵相)の
三党首がテレビに出て、「私たちはリベラルです」と連立の意義を強調していたが、そのうさん臭さは噴飯ものだった。

結果は、野党に転落していた自民党の復権を社会党が助けた。それだけである。

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なぜ、権力闘争の根底に「主義・主張」の違いや「欲」だけではなく、「嫉妬」や「怨念」があると「前書」で書いたのか。
それは、最近の加藤紘一の言動を見聞きしていると、そのことを痛感するからである。
したがって、そのことを書くことで、「政治の醜悪さ」と「政治家の憐れ」を皆さんに解ってもらいたい、そう思ったのである。

最初に、加藤のヒストリーを書いておこう。

加藤紘一。
昭和14年(1939年)生、67歳。山形県鶴岡市出身。東京大学法学部卒。大学時代は「60年安保闘争」に参加。卒業後は外務省のキャリア官僚(チャイナスクール組)に
なる。
父は衆議院議員の加藤精三だが、1965年に急逝した父の後継になることを、このときは断り、7年後の1972年に初出馬し当選。大平派(宏池会)に加入。

政治の表舞台に登場するのは、1978年の大平内閣で官房副長官を務めた時からである。1984年には45歳の若さで中曽根内閣の防衛庁長官に就任。
1987年のポスト中曽根をめぐる権力闘争では、宮澤派(宏池会)の事務総長として陣頭指揮をとる。が、派閥領袖の宮澤喜一は竹下登(経世会)に敗北。
このころから加藤は、「宏池会のプリンス」と呼ばれるようになる。

1991年に宮澤内閣の内閣官房長官に就任。
1992年に、いわゆる「従軍慰安婦」問題について、官房長官として「当時の政府の
関与」があったことが認め、「お詫びと反省の気持ち」を表明した。
朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する加藤内閣官房長官発表
この談話が、翌1993年の河野洋平官房長官による「当時の軍が関与した強制連行」を認める「全面的謝罪」の伏線になるのである。
慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話

1994年の村山「自・社・さ」連立政権下では自民党政調会長に就任。
この政権を樹立する時、河野(当時自民党総裁)や野中広務、亀井静香らとともに、
重要な役割を果たす。その結果、野中は自治大臣・国家公安委員長として、亀井は
運輸大臣として初入閣。
つまり、全員がうまい汁を吸ったわけだ。ちなみに、その時の自民党幹事長は森喜朗(前首相)。

この年の8月、自民党政調会長として中国人民抗日戦争記念館を訪れた加藤は、「ここに来るのは長年の願望だった」「来年は終戦から50年。日本では、どう50年を迎えればよいか議論しており、日中戦争が本格的に始まるきっかけとなった盧溝橋を訪れることができたことは意義深い」と述べている。
この「日本では、どう50年を迎えればよいか(の)議論」が、1995年8月15日の「村山談話」として結実するのである。 

1995年の自民党総裁選では、現職の総裁であり、同じ宮澤派に属する河野ではなく、竹下派(経世会)の橋本龍太郎を総裁に擁立する。これは、河野が、派閥内の最大のライバルだったからである。
このことが99年の宏池会分裂(河野派の独立)の遠因になる。
橋本内閣の下では、3期連続して幹事長を務める。このとき、幹事長代理の野中氏と
コンビを組んで自民党の実権を握り、野中をして「魂の触れ合う 仲」と言わしめるようになった。

1998年に宮澤派を禅譲され、宏池会第6代会長(加藤派)に就任。派閥の後継争いに敗れた河野は、翌99年1月に麻生太郎(現外相)らとともに宏池会を離脱する。(宏池会の第一次分裂)

この年、自民党総裁選に盟友の小泉純一郎(現首相)が出馬する。
このころの加藤は、山崎拓(前副総裁)とともに小泉とは盟友関係にあった。いわゆる「YKK」であり、経世会(竹下派=竹下-金丸信-小沢)による自民党支配を打破することを目的に90年代初頭に結成された。
にもかかわらず、加藤は山崎とともに、盟友の小泉ではなく経世会の小渕恵三を全面的に支持、主流派を選択する。
結果は小泉84票。225票を獲得した小渕に惨敗した。

なお、このころの経世会は、既に金丸は議員辞職(1992年)し、小沢は離党(1993年)。実質的には、衆院は野中、参院は青木幹雄(現参院自民党議員会長)が仕切っていた。

このころから、「YKK」と呼ばれた山崎、加藤と、小泉の盟友関係に亀裂が生じ始める。

ところが1999年の自民党総裁選では、加藤は態度を一変させ、前回支持した小渕に
対抗して山崎とともに出馬する。結果は加藤、山崎の敗北。小渕が再選される。
このときから、加藤には逆風が吹き始める。

この総裁選に際し、小泉は積極的な動きを見せなかった。もちろん加藤支持も山崎支持も表明しない。そして次のように言った。
「YKKは友情と打算の多重構造だ。権力闘争を勝ち抜くには友情だけではダメだが、
打算だけでもむなしい」(1999年6月)。これに対して山崎は、「権力闘争が打算で何が悪い」と言い返した。
まさに権力闘争が、いかに非情なものであるかを物語るエピソードである。

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ここまでに書いた加藤の政治歴を見れば、このころ彼が、最有力の自民党総裁候補であったことがお分かりいただけたと思う。
45歳で国務大臣(防衛庁長官)に就任。その後は内閣官房長官、自民党政調会長、同幹事長(3期)を歴任した。しかも党内第二派閥(宏池会)の領袖である。加えて、政策に強く、外交にも通じている。
このころの加藤を評して、側近だった古賀誠(元幹事長)は次のように語っている。
「自民党の数多い有能な人材の中でピカ一。 宝と思っている」と・・・

この加藤が、なぜ失敗したのか?
世間も、永田町(自民党)も、加藤を自民党総裁の最有力候補とみなしていた。加藤
自身も、自分が最有力候補だと思い込んでいた。実は、そこに一番の問題があった。
よく言えば「プライド」、率直に書けば「うぬぼれと自信過剰」。
加藤は「自分は近い将来絶対に総理になれる。それなら、自分の美学を通して総理になろう」、そう考えたのである。

橋本総裁時代、幹事長-幹事長代理として加藤とコンビを組み、「魂の触れ合う仲」と公言した野中や加藤の側近であった古賀らは、加藤が総理総裁になるための「線路」を敷いていた。
1998年の参院選敗北を受けて、任期途中で引責辞任した橋本の跡を継いだ小渕は、まだ1年余りしか総理・総裁を務めていない。ここは、あと一期(2年)だけ小渕にやらせるべきだ。そうしなければ、最大派閥である小渕派(経世会)が納得しない。
小渕が正規の総裁任期をまっとうしたのち、その跡を加藤に継がせる。そして経世会と宏池会で自民党を牛耳る。
これが野中や古賀が考えていた「線路」であった。

そこで野中と古賀は、「多少、あなたの美学からすれば外れるかもしれないが、この
線路に乗れ」と勧めた。
ところが、加藤は、「いや、プロセスが大事だ」と拒否したのである。
野中たちは、「しかし、美学を通しても(総理に)なれなかったらどうするのか。総理に
なるプロセスは、多少見栄えが悪くても、総理になれば美学を通すことができる。まず、総理になることが大事なのだ」と説得した。が、当然、総理になれると思い込んでいた加藤は、そのプロセスを重要視して説得を拒んだ。
そして小渕に挑んだ加藤は惨敗、結果的に総理の座を棒に振ることになる。

加藤は、当時、米ニューヨーク・タイムズから「冷めた ピザ」と評され、国内でも「鈍牛」、「ボキャ貧」、「真空総理」などと揶揄されていた小渕に我慢がならなかったのであろう。
しかも国内では、バブル崩壊後の金融危機が表面化し、我が国は「国難」に直面して
いた。こういう状況を「真空総理」には任せておけない、加藤はそう思ったに違いない。
だが、当時、自民党の最大の実力者で、「魂の触れ合う仲」だった野中は、加藤に真正面から敵対した。

加藤はこのとき、「金丸さんが小沢さんを寵愛したように、野中さんも古賀さんを寵愛している」と述べて、自民党総裁選における自分の敗北が、まるで側近の古賀の裏切りであったかのような発言をしている。
が、加藤派の議員は、「加藤さんが113票も獲得できたのは、古賀さんのおかげだ」と、加藤の邪推を否定した。

加藤と山崎は、この総裁選の後、完全に干される。
が、事態はすぐに急変する。小渕が2000年4月2日に、脳梗塞で倒れたのだ。そこで
急遽、後継の総理を選択する作業に自民党幹部は取り掛からざるをえない事態に追い込まれた。
まず名前が挙がったのが、自民党総裁経験者で唯一総理大臣に就任していない
河野。宮澤や後藤田正晴などの重鎮が推薦した。が、最終的に選ばれたのは森だった。

内閣官房長官として小渕を支えていた青木は、「(小渕が意識不明の状態なのに)何かあれば万事よろしく頼むとの指示をいただいた」として首相臨時代理に就任。
赤坂プリンスホテルの一室に森幹事長、村上正邦参院自民党議員会長、野中幹事長代理、亀井政調会長(肩書はいずれも当時)を召集して、談合で森を後継総裁にする
ことに決めたのだ(いわゆる五人組による談合)。
加藤派の池田行彦総務会長(当時)にはお声がかからず、加藤もこの動きをまったく
知らなかった。つまり、この時点で、加藤は完全に「番外地」とみなされていたのである。

ところが、この森首相が、誕生の経緯もあってか、国民から不評を買う。首相番記者
からも「サメの脳ミソとノミ の心臓」と揶揄されるほどだった。メディアは、「森喜朗」の
音読みにかけて「蜃気楼内閣」とまで呼んだ。
ここでまた、加藤の「うぬぼれと自信過剰」が頭をもたげてくる。
そして加藤は、山崎を連れ立って、野党が提出した森内閣に対する不信任決議案に
賛成しようとするのだ。加藤派と山崎派が野党に同調すれば不信任決議案が可決される。つまり、内閣総辞職か解散しかない。

これが、いわゆる「加藤の乱」である。
が、野中幹事長(当時)の切り崩しや小泉(当時森派会長・現首相)の頑強な抵抗に
あって、この反乱は鎮圧される。
特に加藤派は、側近と言われていた古賀を始め、宮澤喜一、池田行彦、丹羽雄哉、
堀内光雄などの幹部を中心に半数以上が加藤から離反。(宏池会の第二次分裂)
これを機に、加藤は急速に党内影響力を失くす。

2002年には、加藤の金庫番と言われた佐藤三郎元秘書が、2億8,000万円の所得隠しと約1億円を脱税した疑いで逮捕され、加藤自身も政治資金の私的流用などが暴かれて3月に宏池会会長を辞任し、自民党を離党した。
が、国民の批判は収まらず、4月には衆院議員辞職に追い込まれる。

ところが加藤は、翌2003年11月の衆院総選挙に無所属で出馬、11期目の当選を果たす。そして、その後、自民党に復党。旧加藤派を引き継いだ小里派(現谷垣派)にも
復帰。
しかし、2005年9月には、谷垣禎一(現財務大臣)が派閥の後継に決まると小里派を
離脱する。

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ここまで読んで、皆さんは加藤のことを、どう思われたであろうか?

エリート、プライドが高い、うぬぼれ屋、政局音痴、ケンカの仕方を知らない、中道左派的思想、親中派、などは確実に読み取れる。
が、私はプライドやうぬぼれの裏に、小泉首相に対する嫉妬と怨念を感じるのである。
加藤が総裁選で小泉を支持しなかったのは1998年だけではない。95年に小泉が初出馬した時も、対立候補である経世会(竹下派)の橋本擁立の核になっている。

なぜか?
加藤の中では、YKKにおいて「総理総裁になる資格があるのは自分だけ」と思っていたからである。小泉は、それこそ論外。
山崎はそれを承知していて、まず加藤を総理総裁にする、そして自分は党幹事長として加藤を支える、と公言していた。
(当然、総理の座を加藤から禅譲してもらう、という前提付きだが)

ところが、「プライド」と「うぬぼれ」が裏目に出たうえ、元々が政局音痴でケンカべたと
きているからどうしようもない。
田中角栄元首相は「自分の努力で幹事長まではなれる。だが、総理総裁は努力だけではなれない。巡り合わせだよ」と初当選の挨拶に伺った額賀福志郎(現防衛長官)に語ったという。
が、加藤の場合は「巡り合わせ」ではなく、自業自得だと思う。

そんな加藤にとって、よりによって「格」がず~っと下のはずの小泉が総理大臣になった。しかも、自分のアドバイスには耳を傾けない。それどころかアドバイスと逆のことを
やる。
にもかかわらず国民的人気が高い。
もう、小泉は許せない。後継総理は絶対に「反小泉」でなければならない。そう加藤は思っているのではないか。

加藤は、6月20日のテレビ番組で、自らの総裁選への出馬の意思を聞かれ、こんな
“本音”をのぞかせている。
「私自身は過去5年間いろいろあり、傷も癒えていないので、今回は、そういうことは
しません」
この「今回は、そういうことはしません」という発言を聞いて、加藤の元側近だった谷垣派議員は「『次回がある』と思っているのかなあ……あの人もギラギラ感が抜けないね」と苦笑した、という。

加藤が「非安倍」にこだわるのは、安倍晋三官房長官のアジア外交に対する姿勢を
懸念するからだけではない。政界の急速な世代交代に待ったをかけ、もう一度、自らの活躍の場を確保したいという思惑もあるのだ。
もう1回だけ総理になる(もしくは総理に影響力を及ぼすことのできる)チャンスをくれ!本気でそう思っているのである。

加藤は今、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という心境にまで陥っている。
福田康夫不出馬が確定した今、加藤に政策が近い「ポスト小泉」候補は、かつての
派閥の弟分、谷垣禎一財務相である。
が、加藤は谷垣について、「閣内にいて、小泉さんの庇護の下にいるイメージがある。靖国問題やアジア外交でも谷垣さんは(安倍や麻生と)ちょっと違うがはっきりしない」と評価する姿勢をまったく見せない。(06/07/24 讀賣新聞)
加藤は、谷垣が小泉内閣にいる=小泉に協力していることが、まず気に食わない。そして谷垣派は、本来は自分の派閥だ。谷垣は自分よりも格下だという思いをぬぐい切れないのである。

私は、加藤を「政界のはぐれ鴉」だと思っている。そして彼を見ていると、権力に対する妄執は、ここまで人間を醜悪な存在にさせるのか、と思うと同時に、「政治家の憐れ」を感じずにはいられない。

かつて、政界の策士と呼ばれ、今年5月に死去した松野頼三は、小泉首相の「政治の師」でもあった。
その小泉首相は、松野が亡くなった際に「政局の動き、権力闘争、自らやってきた人だから。派閥間の争い、派閥内の争い、人間の嫉妬。そういう点を実に詳しく教えてくれた」と語っている。

加藤にも松野のような「政治の師」がいれば、少しは彼の政治家人生も変わったものになったのであろうか???

(文中・敬称略)

(注)
「経世会」は、現在は「平成研究会」に改称されています。が、今でも「経世会」の方が
メディア、永田町とも通りがよい。

参照1:異才作家 『大下英治』 が書き下ろす迫真の政治ドラマ
参照2:第147回国会 決算行政監視委員会 第3号
参照3:佐藤三郎・加藤紘一議員元秘書の逮捕について
参照4:「ポスト小泉」への道(11)未練断ち切れぬ「YK」


妄執の虜・山崎拓 2007/01/08

山崎拓(やまさきひらく)という政治家、もう「血迷った」というしかない。
2000年の「加藤の乱」で政治の主流から転落して以来、その言動が徐々におかしくなってきた。そして、安倍晋三総理・総裁誕生で「一丁あがり」の立場になってからは、盲目的に自己存在をアピールする――恥も外聞もかなぐり捨てた「なりふりかまわぬ」状態なのである。

以下の記事を読んでもらいたい。
もう政治家としての信念や節操とは無縁の、妄執にとらわれているとしか言いようがない醜態をさらしているのだ。


自民党の山崎拓前副総裁(党安全保障調査会長)が9日から北朝鮮を訪問し、平壌で宋日昊・日朝国交正常化交渉担当大使らと会談する方向で調整していることが7日、
分かった。複数の政府、与党関係者が明らかにした。議員外交の展開で、北朝鮮の核実験や拉致問題で行き詰まった日朝関係の打開を図るのが狙いとみられる。

ただ政府筋は「首相官邸とは関係ない。この時期に行って、成果があるとは思えない」と指摘、野党などから「二元外交」との批判が出る可能性もある。

山崎氏は8日に北京で1泊し、9日に平壌入りする予定で、滞在は5日間程度になるという。昨年12月初めには小泉純一郎前首相と会談し「3度目の訪朝をすべきだ」と促しており、小泉氏訪朝の地ならしをしたい意向もありそうだ。

山崎氏、9日に平壌入り 日朝関係の打開狙い (共同通信)

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私は、この政治家を1969年の初出馬(落選)のころから知っている。祖父が玄洋社の
幹部だった関係もあって、若いころは自主憲法制定を信条とする、いわゆるタカ派として知られていた。
中央政界入りを果たせたのは中曽根康弘氏に見出されたおかげだが、その後は渡辺美智雄氏(元副総理)の側近として頭角を現す。

タカ派で、一時は青嵐会にも属していたため強面(こわもて)のイメージもあったが、実際は信義に厚く親分肌のところもある人間味あふれる政治家である。
ただ、率直に言ってあまり賢くない。致命的欠陥は政局に疎く、常に自らを「反」もしくは「非」主流派に追いやっている。
「防衛族の実力者」とも言われるが、現在は昔日の面影はない。

この政治家、渡辺氏全盛のころは次代の総理・総裁候補と目されていたこともあった。ただ、経世会(竹下・金丸派)に対抗するためにYKKの一員として加藤紘一氏と組んだころからおかしくなった。
加藤氏は学生時代の左翼体験を完全に払拭できず、いまだに戦後政治の負の側面を強く引きずっている政治家である。
この加藤氏の影響もあってか、今の山拓氏は媚中・親韓、反靖国参拝派と言わざるをえない言動が目立つ。

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山拓氏の最初の誤算は、親分・渡辺氏の早すぎる死だった。結果、準備不足のまま
渡辺派を引き継ぐ破目になったため、ベテラン議員の大半が離反。わずか20数名で
山崎派を立ち上げざるをえなくなった。

次が「加藤の乱」。
宏池会の、あるいは自民党のプリンスとも呼ばれていた加藤氏を助太刀する形で経世会(野中一派)に戦争を仕掛けたが、加藤氏はあえなく討死。
山拓氏も大きな痛手を被った。
もともと政局音痴で喧嘩が苦手な加藤氏と組んで戦争をすることそのものが無謀だった。

そして決定的だったのが女性スキャンダル。
議員宿舎に女性を連れ込んでいるところをフォーカスされ、しかもこの女性が統一教会関係者であったことが発覚。
また博多・中州の元ホステスだった愛人には下半身の事情まで暴露された。
で、次の選挙であえなく落選。

ここで山拓氏の総理・総裁の目は100%なくなったわけだが、本人にその自覚は薄い。
YKKの中で本命とされた加藤氏がコケ、番外地と思われていた小泉純一郎氏が総理・総裁になった時点で完全に潮目が変わったわけだが、この流れを山拓氏は完璧に読み違えている。
だから靖国神社参拝に反対したり、媚中姿勢を誇示したりして流れを懸命に引き寄せようとしているのだが、本流はますます遠ざかり、すっかり「取り残された人」になってしまった。

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今回の北朝鮮訪問騒動も、この勘違い人間・山拓氏の妄執が引き起こしたものだが、北朝鮮の策謀に乗せられるばかりで国益を損なうだけだ。もちろん本人にとってもマイナスでしかない。
ところが、権力中枢に復帰したい(できれば総理・総裁になりたい)一心の山拓氏は
そのことに気づかない。
ここまでくると、もうピエロと言ってもよいのだが、その言動が国益に悪影響を及ぼすという点で、笑って見すごすわけにはいかないのだ。

大幹部だった武部勤氏(前幹事長)は小泉氏に奪われ、子飼いで将来を嘱望していた甘利明氏も安倍氏に走ってしまった。
本来は「憲法改正論者」なのだから安倍首相に協力すれば、それなりの存在感を示せるのだが、枯れることを知らない――そういう意味では政治家らしい人だからこれも仕方がない。

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山拓氏には、加藤氏とともに、自らの立場を自覚し潔くわが身を処することを切に希望する。


「反日」の代表・菅直人を糾弾する 2007/03/08

わが国が東アジアの特定の国から「言いがかり」に近い非難を浴びるのは、国内にそれらの国と意を通じているとしか思えないメディアや政治家たちが存在することも要因の一つである。

メディアの代表格は朝日新聞、そして政治家は、今なら菅直人民主党代表代行だろう。

菅は幹事長時代の2002年5月5日、妻を含めた一行6名で南京大虐殺遭難同胞記念館を訪れ、“遭難者”たちに花輪を捧げ、生存者代表に会ってお詫びとお悔やみを伝えた。
そして菅は「今度南京大虐殺の歴史をもっと知るために南京大虐殺遭難者同胞記念館をわざわざ訪れたのであり、南京での見聞をより多くの日本国民に伝え、歴史を正しく認識しそれを鑑にして、絶対に歴史の悲劇を二度と繰り返さない」と述べた。

つまり菅は、犠牲者の数はもちろん、“事件”の存在そのものにすら疑義が呈されている“南京大虐殺”に何ら疑いを持つことなく、中共の主張を受け入れ謝罪しているのだ。
こんな菅が、今問題になっている米国議会(下院)における慰安婦をめぐる「対日非難決議案」に対してどのような態度を取っているのか?

以下は、菅の公式サイトにおける発言である。


安倍総理が中川幹事長の「忠誠心」発言に反発し、官邸の空気が変わってきた。安倍総理が、いろいろな配慮をすることを止め、好きなことをやるという姿勢に変わった。その第一段がお友達の江藤氏復党。第二段が予算の強引な衆院通過。河野談話に関する発言もその流れ。これからますますタカ派色を出して、強引な国会運営をやってくる可能性が強い。

従軍慰安婦問題に関する河野談話に関しては、議会で多数を握ったアメリカの民主党は人権問題に敏感で、安倍総理の言い訳発言にアメリカ世論が反発する危険性がある。また総理就任直後の訪問で改善された中国、韓国との関係も再びひびが入る可能性がある。

官邸の空気 2007-03-05 (Mon) 菅直人の今日の一言

批判の対象である衛藤晟一・前衆院議員を「江藤」と書くなんて、この男の「いい加減さ」をよく表している。ただ、こんなことは本質的なことではないので見逃してやろう。
が、「安倍総理の言い訳発言」という言葉は看過できない。

安倍首相の「狭義の意味での強制性を裏付ける証言はなかった。官憲が人さらいのごとく連れて行くという強制性はなかった。いわば『慰安婦狩り』のような強制連行的なものがあったということを証明する証言はない」(2007/03/05 讀賣新聞)という発言のどこが「言い訳」なのか!!!
ここに、事実をゆがめてまで自身の主張を正当化することを得意とするこの男の本質が如実に示されている。

要は、菅の言葉には、言外に「日本軍による強制連行はあった」という認識が含まれているのだ。

「アメリカ世論が反発する」「中国、韓国との関係も再びひびが入る」――こういう主張をすることによって国民の不安感を煽り、時の政権を貶(おとし)める、これはもう使い古された手法である。

「アメリカ世論が反発する」のが問題ではない。その反発する根拠が正しいのか否かが問題なのである。「中国、韓国との関係」もそうだ。関係悪化が、何によってもたらされようとしているのかを国民の前に明らかにするのが政治家としての責務である。
米国世論の反発が誤解に基づくものであれば、それを解消する。中韓との関係悪化が、彼らの政治的意図、プロパガンダに起因するものであれば、これには断固反撃する。
これが本来の日本の政治家のあるべき姿である。

にもかかわらず菅は、中韓のプロパガンダに迎合して自国政府を攻撃しようとする。これは責任ある野党第一党を代表する政治家が取るべき態度ではない。
「中韓との関係に“無用”な摩擦を起こしたくない」という姿勢が、今回の米国議会における「対日非難決議案」を引き起こしたのである。
菅の発言には、その肝腎な部分の認識が欠けている。相変わらずの「“無用”な摩擦を起こしたくない」という姿勢だ。が、これは厳密に言えば「摩擦を起こしたくない」ではなく「中韓の言い分には従うべきだ」と言っているに等しい。

このような政治家が、幹事長ばかりか代表を二度も務め、今は代表代行として党の顔になっている。こんな党が野党第一党であるというところに、わが国の不幸がある。

菅に代表される政治勢力にとっては、もう「歴史において何が真実か」が問題ではないのである。彼らにおいては「いかに日本の過去の歴史を否定するか」が重要なのだ。
「戦前の日本は悪」「戦前の日本を否定する自分たちは善」―これが彼らの立脚点であり、自らの立場を有利にするためには外国勢力にも迎合する。

これが民主党の本質なのである。
だから部落解放同盟を“関係団体”として党の公式サイトに掲載し、幹部政治家が朝鮮総連(北朝鮮)から政治献金を受けるといったような不祥事が後を絶たない。

菅だけではない。
民主党は、元副代表の岡崎トミ子参院議員を中心として「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」なる法案を執拗にわが国国会に提出し続けている。これは、わが国政府に対して“従軍慰安婦”への謝罪と補償を要求する法案である。
この岡崎が今回、韓国のメディアに登場して何と言ったか。
「日本は、この法案をきちんと通して、一人一人の名誉の回復をしてゆきたい」
これである。

岡崎の仲間である民主党参院議員の那谷屋正義も「自国の問題であるのに、自身で解決できずに米国に頼っている。謝罪というのは人と人が真剣に心から過ちを認め、相手とわかりあうことで成立する。現在、そうなっていないことに憤りを感じる」(朝鮮新報)と述べている。
「米国に頼っている」???ここまでくると、もう「理解できない」というか「狂っている」と言うしかない。

敵は中国や韓国、あるいは在米の「反日」ネットワークと、それに踊らされる米国議員
ばかりではない。もっとも危険なのは、菅直人を始めとする国内の売国議員たちであり、それが“リベラル”を名乗って民主党の中枢に居座っていることである。

われわれは、米議会の一部に見られる不当極まりない動きに断固反対するとともに、国内に巣食う「反日」売国議員たちを糾弾しなければならない。

参照:日本民主党の菅直人幹事長が南京大虐殺遭難同胞記念館を見学
    (中華人民共和国駐福岡総領事館)

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2009/01/07

ドン・金丸信の後継者

過去の人気エントリの再掲を続けていますが、読み返してみると、我ながら「面白い!」と感じ入ってしまうことがあります。
まず、掘り下げの度合が今とは違う。やはり時間をかけていた、ということですね。が、今の私にはそれがままなりません。それに、書きたいことは書き尽くしたという、「燃え尽き症候群」みたいなところもありますし。
でも、自分で書いたエントリを改めて読んで「面白い!」と感じるのも、我ながら「どうか」と思います。

今日は、今の政治を語る上で避けては通れない「田中派」―「竹下派」支配について言及したエントリです。小沢一郎も小泉純一郎も、この戦後保守政治を牛耳り続けてきた「超」派閥を語らずして説明、と言うか理解できません。

政治家・小沢一郎を理解するうえでの一助になるエントリかと思います。

ドン・金丸信の後継者 2006/04/05


政界のドンと言われた金丸信元自民党副総裁がこの世を去って、丸10年。2日、かつての門下生たちが集まりました。

鉄の結束と恐れられた旧竹下派を率いた金丸元副総裁。しかし、5億円ヤミ献金事件をきっかけに、派閥は分裂。近年は、権力の中枢からすっかり遠ざかり、去年の郵政選挙での公認外しなど小泉総理大臣の徹底した仕打ちにあって、門下生たちも別々の道を歩むことを余儀なくされました。

自民党野中元幹事長:「竹下・金丸先生の、血の出るような思いで作った平成研(旧竹下派)が、本当に見るも哀れな姿になるのが耐えられない」

竹下派200人構想をぶち上げ、政界再編をにらんでいた金丸元副総裁。皮肉にも、派閥の弱体化だけを印象づけた、しのぶ会となりました。

今や別の道 「政界のドン」しのび門下生が集結
(2006/04/03/08:20 ANN News)


金丸信、この男を語らずして、今の政治を理解することはできない。

それにしても、2日の「しのぶ会」は、テレビで見る限り、かなり寂しいものだった。「竹下派七奉行」と称された政治家は誰一人として姿が見えない。
小渕恵三、奥田敬和、梶山静六の三名は故人。橋本龍太郎(引退)は、訪中から帰国直後で、霊前に報告と行きたいところだが、自民党執行部から、「もう橋本さんは、党に座る場所どころか居場所もない」とこき下ろされる体たらく。小沢一郎(民主)、羽田孜(同)、渡辺恒三(同)の三名は、民主党の権力闘争で、それどころではない。
姿を見せた大物(?)は、綿貫民輔(国民新)と野中広務(引退)の両名くらい。
改めて、時代の流れとその変化を痛感する。


戦後の保守政権は、1972年(昭和47年)に退陣した佐藤栄作政権までは、米国の
庇護の下、米国の後に付いていくだけでよかった。
ところが、佐藤の後を襲って首相に就任した田中角栄は違った。当時の米国のメディアは、「日本に、米国と対等にモノが言える首相が初めて誕生した」と報じた。
が、この米メディアの見方は正確ではない。
1972年1月に、ニクソン米大統領(当時)が、日本の頭越しに中国を訪問した。ニクソンは周恩来、毛沢東の両首脳と会談、米中平和五原則を発表する。
このニクソン訪中の後、自信を付けた中共政権は「日本の佐藤政権、相手にせず!」と、我が国に対して強烈なパンチを繰り出した。この衝撃が、米国の意向に逆らって
まで、田中内閣を日中国交回復=日中友好路線に走らせたのである。

ここから、日米同盟に依拠しながら、中国とも政治的・経済的結びつきを深めるという
外交路線を、我が国の保守政権は取るようになった。
この路線は、実は米国の国益にも合致していた。なぜなら米国は、(旧)ソ連を最大の脅威とみなしており、当時の中共政権も、強烈な「反ソ連」だったからである。中共政権は、「反ソ連」という一点のみで、日米安全保障条約(日米安保)さえ肯定的に評価した。
ここに、東アジアにおける反ソ連共同戦線が成立したのである。
中共政権が日米安保を積極的に評価したときの、社会党(現・社民党)首脳の困惑しきった表情が忘れられない。

田中内閣が登場して変わったのは外交ばかりではない。日本の政治・経済構造も大きく変わった。
田中は、「越山会」という後援会を組織した。そして、「越山会員の建設業者による公共事業受注と、その見返りとしての選挙の際の票とカネ」という相互依存関係を地域社会に張り巡らせた。田中は、こうして地域社会を支配した。
この田中のやり方は、地域社会のインフラ整備と住民の生活向上に大きく貢献した。が、反面、「利益誘導と、その見返りとしての票とカネ」という手法が自民党内に蔓延し、自民党全体を「金権体質」に変質させた。
また、日本経済を、公共事業に過度に依存させるという、いびつな産業構造に導いた。後々のバブルや借金漬けの財政も、この時期にその土壌が作られたと言ってよい。

この田中の支配は、1985年の「創政会」=竹下グループの田中派からの離脱まで
続く。実に13年近くにわたって、「田中支配」が自民党及び日本を席巻したのである。

この田中支配は上述したように、「創政会」=竹下グループの分派で終焉を迎える。
そして、田中の支配下にあった中曽根康弘内閣は自立し、独自色を強める。中曽根は、国鉄民営化や民間活力活用政策で成果を上げ、竹下登に政権を禅譲する。
ただ、田中派の分裂を機に自立した中曽根政権だが、「利益誘導と、その見返りとしての票とカネ」という田中的体質は相変わらずで、「土地本位制」とも揶揄された経済体質は、そのまま引き継がれた。
この土壌の上に、円高対策により発生した過剰流動性が、バブルという「あだ花」を
咲かせることになる。


では、金丸信とはどういう人物だったのか?
金丸は、大正3年(1914年)9月17日、山梨県中巨摩郡今諏訪村(現南アルプス市)で造り酒屋を営む父・金丸康三と母・とくの長男として生まれた。
旧制身延中学校(現山梨県立身延高等学校)、東京農業大学農学部卒業。
大政翼賛会の青年組織である翼賛青年団に加わって山梨県の団長・名取忠彦の知遇を得、戦後、彼の下で脈々会に加わった。
東京農大時代は、柔道の猛者(もさ)として鳴らしたという。

田中角栄もだが、金丸も毀誉褒貶の激しい政治家である。国士として尊敬する者も
いれば、単なる金権政治家として軽蔑する者もいる。
私は、融通無碍な寝業師だったと思っている。情にもろく義理に厚い。無定見で妥協を得意とする。私は、金丸の主義主張を聞いたことがない。
金丸は自分のことをよく解っていた。だから、党内最大派閥を率いていながら、ポスト
竹下に推されたとき、これを固辞、自ら宮沢喜一を後継に推した。

こんな金丸が、なぜ絶大な影響力を誇ることができたのか?
それは、まずカネである。角栄式の「利益誘導と、その見返りとしてのカネ」。これを
徹底した。あるとき、記者会見で、自身の政治資金について質問されたとき、「ワシの名前はカネにマルと書くんだよ」と、冗談とも本音ともつかない言い回しで、資金が潤沢であることを示唆していた。
次に人脈。社会党の田辺誠委員長(当時)とは盟友関係にあった。また、革マル派
副議長(だった?)の松崎明JR東労組会長とも懇意。ニュースステーションが好きで、久米宏のファンだったとも聞いている。
裏社会とも繋がりがあって、広域暴力団稲川会の石井進会長(当時)とは兄弟分だったと言われる。ちなみに、金丸の一の子分を自認していた浜田幸一は元稲川会。
数の力も大きい。豊富なカネと人脈を誇る金丸の下には、陣笠議員が続々と参集。
「経世会」(竹下派)の構成議員は100名を越えた。

金丸は、1985年、勉強会と称して「創政会」を結成する。これは、共通の孫を持つ竹下登を派閥の後継領袖とするためのクーデターであった。これを知った田中角栄は激怒。猛烈な切り崩し工作を行なう。
このとき田中と面会した金丸は、「今までは、おやじさんのために命がけで闘ってきた。これからは、おやじさんと命がけで闘う」と、宣戦布告とも取れる文句を口にしたという。
この死闘は、結局、田中が脳梗塞で倒れたことで、金丸-竹下の勝利に終わる。1987年7月、「創政会」は「経世会」(竹下派)として正式に独立した。
1987年11月、竹下が第74代内閣総理大臣に就任、金丸は「経世会」会長に就任し、
党内最大派閥を率いて自民党のドンと呼ばれるようになる。

金丸の政治的夢は、自民党と社会党を解体・再編成して政権交代可能なニ大政党を
作るということだった。社会党の田辺との関係は、そういう意味合いも含んでいた。
が、金丸は思わぬところで挫折する。平成3年(1992年)東京佐川急便から5億円の
ヤミ献金を受け取っていたことがが発覚。党副総裁辞任に追い込まれる。それでも世論の反発は収まらず、10月には衆議院議員を辞職、「経世会」会長も辞任した。

田中もそうだったが、政治家は権力を失うと、途端にその闇の部分を追求される破目に陥る。
東京国税局は、東京佐川急便事件を捜査していた東京地検とは別に、金丸が妻(元・赤坂のクラブホステス)が死亡した際に受け取った遺産に着目、内偵を進めていた。
そして、日本債券信用銀行(日債銀・当時)の割引金融債(ワリシン)の一部が申告されていない事実を突き止め、東京地検に告発した(「自民党の打ち出の小槌」と呼ばれていた日債銀内では、金丸のことを“蟷螂(カマキリ)紳士”と符号で呼び、銀行ぐるみで不正に協力していた)。
平成4年(1993年)3月6日、東京地検は金丸本人と秘書を脱税の容疑で逮捕。自宅を家宅捜索したところ、「金の延棒」等の数十億円の不正蓄財が発覚する。
金丸は、来るべき政界再編に備えた軍資金であると述べた。


金丸信、この男を語らずして、なぜ今の政治を理解することができないのか?

それは、金丸の失脚後、小沢が自民党を離党して新生党を立ち上げ、細川連立政権を樹立したのは、金丸の政治的夢であった、自民党と社会党を解体・再編成して政権交代可能なニ大政党を作るということに通じるからである。
金丸と小沢のニ大政党論に共通しているのは、結集すべき理念が何なのか明確ではないということだ。だから、新進党に平気で公明党を参加させた。
また、小沢と袂を分かって自民党に残った橋本や野中も、金丸の別の部分、つまり、「利益誘導と、その見返りとしてのカネ」「無定見で妥協を得意とする」ところを見事に
引き継いでいる。
そして、この「金丸」的な政治と真っ向から闘い、勝利を収めたのが小泉純一郎だった。
要は、「失われた10年」を取り戻す闘いは、「金丸政治」との闘いでもあったと言っても
よい。


最後に、金丸が、その政治家としての評価を地に貶めた事件について書いておこう。
これは、ある意味、東京佐川急便からの「5億円ヤミ献金事件」や「巨額の脱税及び
不正蓄財」よりも罪が大きい。

1990年、金丸は、盟友である社会党の田辺らと訪朝団を編成。団長として北朝鮮を
訪問する。このとき自民党の代表として、国交正常化や日本統治時代の補償とともに、「南北朝鮮分断後の45年間についての補償」という約束を自民党、社会党、朝鮮労働党の3党で交した。
これは、南北分断後の「日本の北朝鮮敵視政策(笑)」を我が国が反省し、それによって北朝鮮が被った損害を補償するというものである。
既に、北朝鮮による日本人拉致疑惑は、我が国政府も認めるところだった(1988年3月26日、参議院予算委員会、梶山静六国家公安委員長答弁)にもかかわらず、こんな
正気の沙汰とは思えない約束をする。
この約束は帰国後、当然のことながら猛烈な批判を浴びる。そして自民党の承認を得られず反故(ほご)にされた。
このころから、金丸の自民党内における神通力が衰え始めた。


なお、この訪朝団には、野中も同行している。野中は1999年にも訪朝し、金日成を生前の姿のまま安置した錦繍山記念宮殿を訪問、以下のように記帳している。
「ご生前中に三度にわたりご会見の栄を得ましたことに感謝し、金日成主席閣下の
不滅の遺徳が、朝鮮民主主義人民共和国の永遠の発展と日本国との友好発展の
上に、大いなるお導きを願い、永久不変万年長寿をお祈りします」

つまり、金丸の「金権」「売国」的体質は野中がしっかりと引継ぎ、無定見な「政界再編の夢」は小沢が引き継いだ。そして、小泉は、そのような「金丸的な体質」に果敢に闘いを挑んだ。
すべてではないが、大雑把に言えば、そんなところではないか。


金丸がもっとも可愛がったのが小沢だった。その金丸が議員を辞職するに際し、小沢は「ぜひ、次の派閥の長は小沢にと、記者会見で指名してくれ」と詰め寄ったとされる。が、金丸から「辞めていく人間が、後のことなど指名することはできない」と拒絶された。だから小沢は派閥を割り、党を割ったという説もある(ただ、これは野中の話だから割引く必要がある)。
(文中・敬称略)

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【追記】 2009/01/07
脱税容疑で金丸の自宅を家宅捜索した時に出てきた「金の延棒」には、刻印(品質保証)がなかったと言われている。刻印のない「金の延棒」を作っている国は北朝鮮しかないそうだ。
この「金の延棒」=北朝鮮説は、自民党の平沢勝栄衆院議員(元警察官僚)も証言している(2002年11月24日 サンデープロジェクト)。
この話が事実なら、国士・金丸信は北朝鮮のエージェントだったということだ。だから、経世会全盛時代は「拉致問題」が闇に葬られていた、そう思うと納得がいく。

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2009/01/06

中・韓―その「反日」の本質

皆さんの中には、中国と韓国が「なぜ反日に走るのか」をよく理解できない方もおられると思う。それも当たり前で、日中、あるいは日韓のような2国関係は世界でも珍しいからである。
口では「友好」を唱えながら、気に食わないことがあると相手の内政問題にまで干渉し、ヒステリックに非難、というより中傷を加える、こういう隣国(友好国)に囲まれているという状況は、普通はありえない。
しかも、そのヒステリックな隣国の中傷に共鳴し、自国を誹謗する勢力が国内に堂々と存在するというのも、まさに東アジア的、そして日本的特殊性のなせるところだろう。

ところで、同じ「反日」でも中国と韓国のそれは本質的に違う。官民挙げて絶叫する、あるいはプロパガンダの塊であるという点では同じだが、両国の歴史的、または政治的、あるいは地政学的違いがその「反日」のあり方に大きく影響を与えている。

以下の記事は、引き続き過去の人気エントリの再掲だが、お読みいただければ、そのあたりがかなりクリアーになると思う。

中・韓―その「反日」の本質 (2007/05/13)

小泉内閣のころ、よく「日本はアジアで孤立している」と言われた。
が、これは親中派や左翼、あるいは朝日新聞に代表される左派メディアのプロパガンダでしかなかった。
実際のところアジアで、いや世界中で日本の首相の靖国神社参拝を非難していた国は中国と韓国、それに北朝鮮くらいしかない。
このためネット上では、この3国を明確に区分するために「特定アジア」とか「特ア3国」とか呼ぶようになった。
では、なぜこの3国は日本の首相の靖国神社参拝を非難するのか?なぜ「反日」なのか?
今日はこのあたりに言及したい。
ただ、北朝鮮はカルト国家なので今回は対象にしない。

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実は中国と韓国の「反日」は本質的に違うのである。

中国は1972年の「国交正常化」以来、80年代後半までは間違いなく「親日」だった。毛沢東は日米安保条約ですら容認していた。もちろん日本の首相の靖国神社参拝を非難することもなかった、“A級戦犯”が合祀された後も。
80年代の中国で、もっとも人気のあった女優は日本の山口百恵であり、男優は高倉健。百恵が主演した「赤い疑惑」は中国で空前のヒットを記録した。
つまり、中共指導部も中国社会の空気もけっして「反日」ではなかったのである。

もちろんこれには事情があった。
一つは、ソ連が中国にとって大きな脅威になっていたということ。それから当時の中国は世界で孤立していたということ。
そのころの中国にとって「友好国」と呼べるのは、アルバニアとルーマニアくらいしかなかった。

ところが80年代後半から状況は一変する。
1989年に起きた天安門事件は中国共産党(中共)の威信を一気に低下させた。なぜなら人民の軍隊(人民解放軍)が人民を虐殺したからである。しかも、改革開放に伴なう市場経済の導入により、共産主義イデオロギーは社会的規範としての役割を喪失した。
中共の威信低下と共産主義イデオロギーの崩壊―つまり、80年代後半から共産党一党独裁の正統性に疑問符がつき始めたのである。
一方、対外的環境を見ると、1991年には中国にとって最大の脅威だったソ連が崩壊した。これにより、反ソ戦略の一環としての「親日」が不要になった。
ここにおいて中共指導部は「反日」に大きく舵を切ることになるのである。

「中国共産党は抗日戦争において中心的役割を担い、これに勝利した」
中共独裁を正当化するにはこれを強調するしかなくなった。
そして「抗日戦争」における共産党の役割をたたえるプロパガンダは、同時に中国を侵略した日本軍がいかに残虐だったかを強調するプロパガンダにつながっていった。

つまり中国の「反日」は、中共体制が抱える内部矛盾の外部転化なのである。
共産党支配の正統性を合理化し、その求心力を維持するために抗日戦争の勝利と「反日」を強調する。90年代に入って強化された愛国・民族主義教育は「反日」教育でもあったのだ。

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以上を読めば、中国の「反日」が政治的な動機によるものであることがおわかりいただけたと思う。

では、韓国はどうか?

韓国の「反日」は、言うなれば歴史的怨念、民族的怨念の発露である。
その起源を私は、1637年の「丙子胡乱」にあると見る。

14世紀末に建国された李氏朝鮮は明(中国)の朝貢国であった。その朝鮮にとって
満州(中国東北部)にある女真族は北狄(ほくてき=野蛮人)であり、軽蔑の対象でしかなかった。
ところが17世紀に入ると、満州で女真族が建てた後金が勃興し国号を清と変更すると、朝鮮に対して朝貢及び明への派兵を求めてきた。
華夷思想に染まっていた時の朝鮮王・仁祖は当然のことながら清の要求を拒絶する。すると、怒った清の皇帝・太宗は10万の兵力を率いて朝鮮に侵攻した。で、清の圧倒的な兵力の前に朝鮮軍はなすすべもなく惨敗を重ね、わずか45日で降伏。
これが「丙子胡乱」である。

このとき江華島に逃げた仁祖は清軍に捕らえられ、三田渡で降伏の儀式が行われた。この儀式は屈辱的なもので、仁祖は太宗に対し三跪九叩頭の礼(三度ひざまずき、
九度頭を地にこすりつける)をもって清皇帝を公認する誓いをさせられた。
そして三田渡の地には、後にこれを記念した大清皇帝功徳碑(三田渡碑)が建てられることになる。

韓国では、この碑を「恥辱碑」と呼ぶ。
それは、この碑に以下のような内容の文が刻まれているからだ。

愚かな朝鮮王は偉大な清国皇帝に逆った。
清国皇帝は、愚かな朝鮮王を窘め、この大罪を諭してやった。
良心に目覚めた朝鮮王は、自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った。
我が朝鮮は、この清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に逆った愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする。
(要約)

この屈辱の儀式のあと朝鮮は、「三田渡条約」と呼ばれる、これまた屈辱的な条約を清に呑まされる。

大淸皇帝功德碑の原文(漢文)はこちら
http://zh.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B7%B8%E7%9A%87%E5%B8%9D%E5%8A%9F%E5%BE%B7%E7%A2%91

日本語訳はこちら大清皇帝功徳碑の要約

Jijyokuhi3













この写真のレリーフは韓国政府が作ったもので、「大清皇帝功徳碑」のそばにある。
清の太宗の陣地があった三田渡の受降壇で、仁祖が太宗に対して三跪九叩頭の礼を行い、清皇帝を公認する誓いをさせられるという場面を描いたものである。

「受難の歴史が渦巻くこの場所で、我々はこのような汚濁の歴史が再び繰り返されないよう、民族的自尊を高くし、自主、自強の意志を固く決意しなければならない」

レリーフの文末には、このように書かれている。これは、1982年当時の全斗煥・軍事政権のころに書かれたものだ。
「受難の歴史」「汚濁の歴史」、この言葉に韓国・朝鮮の歴史的、民族的無念が示されている。誇り高き韓国・朝鮮人にとっては受け入れがたい歴史だが、これが事実であることがさらに彼らの自尊心を傷つける。

参照:よみがえる?「対中/屈辱の碑」 (毎日新聞)

この清によってもたらされた「受難」「汚濁」から韓国を解き放ったのは「自主、自強の
意志」ではなかった。屈辱的な「三田渡条約」を破棄し、晴れて独立の身になれたのは清が日本に敗北したからである。
つまり、日本のおかげで「受難の歴史」「汚濁の歴史」を断ち切ることができた。
が、これまた韓国・朝鮮にとっては屈辱だった。北狄(野蛮人)から受けた恥辱を東夷(とうい=未開人)の力を借りて晴らすことになったからである。

で、結局、韓国・朝鮮はこの後も「自主、自強の意志」を固めることはできず、日本の統治下に組み込まれることになる。そして、この日本による統治から解放されたのが米国のおかげ。
ここでも「自主、自強の意志」とは無縁のまま独立を果たすことになる。で、独立後は
今度、南北に分かれて同じ民族同士で無残な戦争を引き起こしてしまう。片方はソ連、もう一方は米国の後押しを受けて。

つまり、韓国・朝鮮は中世から近世~近代にかけて一度も「自主、自強の意志」を貫いたことがない。この屈辱が「民族的自尊を高くし、自主、自強の意志を固く決意しなければならない」という言葉になって表れるのだ。
狂気じみた「反日」も、盧武鉉という低脳な政治家を「反米」主義者というだけで大統領に選んだのもこのためだ。

このあたりは、拙著『韓国が世界に誇る ノ・ムヒョン大統領の狂乱発言録』をお読みいただければ、よくわかると思う。

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中国の「反日」は政治的に作られたものだ。一方、韓国のそれは歴史的、民族的な理由による。

したがって、中国の「反日」は中共の都合次第でどうにでもなる。
今、中国では自らが蒔いた「反日」の種が大きくなりすぎて、逆に中共体制を脅かすまでになっている。だから中共は「親日」宣伝に努めている。

「赤い疑惑」を再放送したり、米倉涼子主演の「女系家族」や「黒革の手帖」を放映したりしているのもそのためだ。
もちろん、中国進出にブレーキがかかりつつある日本から、より一層の資本と技術を引き出すことも狙いの一つである。

一方の韓国は、盧武鉉政権がハンナラ党(保守)政権に代わっても、その「反日」は本質的には変わらない。おそらく経済的に、文化的に「日本に追いつき追い越す」までは、「反日」は今のままだろう。
そして韓国が日本に追いつくことは、この先100年間はありえない。

結論として言えることは、狡猾な中国も愚かな韓国もわが日本国の友好国にはなりえないということだ。
むしろ、「近隣国とは利害が対立するのは当たり前だ」という心構えで、「敬して遠ざける」という態度を貫くべきである。

【注】
“A級戦犯”が靖国神社に合祀されたのは1978年、中国がわが国首相の靖国神社参拝を非難し始めたのが1985年。
が、この時も、胡耀邦政権は自制的で、むしろ日本の野党(社会党)が煽り立てている感じだった。

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2009/01/05

人体実験だった広島・長崎の原爆

今日は、過去の人気エントリの再掲、第5回目。
ここで、最大且つ唯一の同盟国である(と私が思っている)米国に対する私の基本的認識の一端を明らかにしておきましょう。
以下は、もう2年半近く前の2006年8月13日にアップしたエントリです。やはり、毎年8月になると、米国やソ連(ロシア)に対する怒りと、戦後の我が国の不甲斐なさに対する落胆がこみ上げてきて、私はその感情を押し止めることができません。

ほんとうに米国(連合国)の戦いは「正義」で、我が国のそれは断罪されるべきものでしかなかったのか?
あの戦争を直視した時、それほど単純に物事を割り切れるのか?
私は、米国との間に「真の同盟関係」を築きあげるうえでも、何が正義だったのかを相対的に考察するべきであると思っています。

以下のエントリが、皆様の考察の一助になれば幸いです。

人体実験だった広島・長崎の原爆

「後悔に1分たりとも時間を費やすな」は米大統領だったトルーマンの言葉だ。
実際、戦後何百回もたずねられた「原爆投下」について少しも後悔の念を見せなかった。難しい決断だったかと聞かれ「とんでもない、こんな調子で決めた」と指をパチンと
鳴らした。


これは、毎日新聞の8月6日付【余録】で紹介されている第33代米国大統領、ハリー・S.トルーマンの逸話である。
つまり、「指パッチン」で日本に対する原爆投下を決めた。後悔する必要なんて、これっぽっちもない、というわけだ。が、「後悔に1分たりとも時間を費やすな」という言葉を吐かざるをえなかったというところに、この人物の深層が表れているような気がする。

実際、非公式な場所では、良心の呵責に苦しめられていることを周囲の人や身内の人たちに洩らしていたと言われる。
【余録】氏も次のように書いている。
「妻や妹への手紙、内輪の会話、日記では、女性や子供の被害へのおののきや後悔を示している。(原爆の開発にかかわった)科学者らが自責の念を示すと、ひどく感情的に反発した」
やはり、大統領、そして国家に「過ち」はあってはならない、その思いが「後悔に1分たりとも時間を費やすな」という言葉と、「指パッチン」という態度につながったのだろう。

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私は昨年の8月6日、次のように書いた。(抜粋)


私は米国を、日本のかけがえのない同盟国だと思っている。しかし、毎年8月がくると
怒りがこみ上げてくる。
これは、もう理性を超越した、日本人としての血がなせる業だと思う。やはり、今日は、原爆と米軍の話を書かずにはいられない。

私は、広島の平和記念公園を二度訪れたことがある。もちろん、原爆死没者慰霊碑に首(こうべ)を垂れ、祈りを捧げた。そのときは、「過ちは繰り返しませぬから」という碑文の文言には、何の抵抗もなかった。しかし、今日、その碑文を読み直して強い違和感を覚えた。
原爆投下という過ちを犯したのは米国である。なのに「過ちは繰り返しませぬから」とは・・・・・・おそらく、この慰霊碑が建立された頃は、日本の誤った戦争が原爆の悲劇をもたらしたという認識が、我が国民に強かったということであろう。当時の私も、何の
抵抗も感じなかったのだから・・・

広島に原爆が投下されたことに対して、我が国及び我が国民に非は一切ない。史上
最大級の戦争犯罪を犯したのは米国である。したがって、原爆被害に遭われた方々に対して、「過ちは繰り返しませぬから」などと言うのはもう止めにしたい。
「原爆の悲惨さは永遠に忘れません。皆様の筆舌に尽くしがたい苦痛と無念を心の
奥底に深く刻み込みます」と誓いたい。

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しかし、誤解してほしくないのは、当時の米国が戦争犯罪を犯したと断罪し、反米感情を煽ることが私の目的ではない。なぜ広島や長崎に原爆が投下され、20万人以上もの命が一瞬にして奪われることになったのかの真実を知ってもらいたいのである。
したがって、私の立場は、先月の中旬に広島で開かれた「国際民衆法廷」とは明らかに違う。

「国際民衆法廷」は先月16日、原爆開発や投下に関与した米国のルーズベルト、トルーマン両元大統領や元軍人、科学者ら15人の「被告」を、国際法違反で「有罪」とする
判決要旨を発表した。また、米国政府に対し、被爆者や遺族への謝罪と賠償を求める
「勧告」も盛り込んだ。

が、この法廷の「設立趣意書」を読むと、この「法廷」が、特定の思想的立場に立った
ものであることが解る。
「設立趣意書」では「私たちは、憲法第9条の精神を単に形式上だけ維持するのでは
なく、積極的に世界に向けて拡大・活用させていく義務と責任があります」「原爆投下という大惨事を招いた当時の日本政府と昭和天皇にも被爆者の方々に対する責任の
一端があると私たちは考えます」と書かれている。

これは、「私は米国を、日本のかけがえのない同盟国だと思っている」「広島に原爆が投下されたことに対して、我が国及び我が国民に非は一切ない」という私の立場とは、対極にいる人たちの考え方だ。

ただ、この「国際民衆法廷」で明らかにされた「原爆投下に至る事実関係」には、米国
政府が公開した「保存記録」に基づく記述が多く、参考にはなる。

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米国の主張は、「原爆の投下がなかったら戦争は続き、原爆の犠牲者以上の死者が
出たであろう」というものだ。原爆は、逆に多くの人命を救ったのだ、だから原爆の投下は正しかったんだ・・・
これが、米国の論理である。が、これは真っ赤なウソである。
米国の狙いは、実際に原爆を使用することによって、核実験だけでは得られない、その効果を検証することであった。つまり、広島の原爆も長崎の原爆も「人体実験」だった
わけである。

1945年7月26日、米・英・中の3国は、我が国に対して降伏を勧告する、13条から成るポツダム宣言を発した。
宣言の骨子は以下のとおりである。

日本軍の無条件降伏 、及び日本国政府によるその保障(13条)
カイロ宣言 の履行(8条)
領土を本州、北海道、九州、四国及び諸小島に限定(8条)
戦争犯罪人 の処罰(10条)
日本を世界征服へと導いた勢力の除去(6条)
特に13条の最後は、「右以外の日本国の選択は迅速且(かつ)完全なる壊滅あるのみとす」という「殲滅宣言」とも受け取れる言葉で結ばれている。

ポツダム宣言の詳細は→ポツダム宣言(米、英、華三国宣言)

実は、このポツダム宣言と、それが成立する過程に、米国の日本に対する原爆投下の真実が隠されているのだ。

ポツダム宣言は、天皇制維持についてまったく言及していなかった。そのために、我が国政府の内部では、この宣言をめぐって激論が交わされた。が、出された結論は「宣言の黙殺」と「断固戦争完遂に邁進する」というものだった。
ところが、宣言の起草段階では、天皇制の維持が含まれていたのである(12条)。にもかかわらずトルーマンが12条を書き換えさせたため、明確な天皇制の保証は姿を消した。残ったのは「日本国国民の自由に表明せる意思に従い」「政府が樹立せらるる」という文句である。
我が国政府が後日、ポツダム宣言受諾を決定したとき、付けた条件が「天皇制の維持(国体の護持)」であったことを考えれば、12条を書き換えていなければ、我が国政府の最初の結論が違ったものになった可能性は高い。
もちろん、12条に「天皇制の維持」が含まれていたとしても、我が国が早い段階で宣言を受諾したか否かは分らない。が、トルーマンが、日本政府の宣言受諾を遅らせようと企図したことだけは間違いないのである。

以下に、原爆投下までの経緯を時系列的に整理してみる。

1942年8月13日、レスリー・グローブズ陸軍少将を最高指揮官に、オッペンハイマー
博士を原爆の設計・製造の総責任者として「マンハッタン計画」がスタートする。
1944年9月19日、、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相との間で交わされた
ハイド・パーク協定によって、原爆の投下対象をドイツから日本へ変更することが決定される。
1945年4月に、ルーズベルトから大統領職を引き継いだトルーマンの下、目標検討委員会では、初めから軍事目標にたいする精密爆撃ではなく人口の密集した都市地域が
爆撃目標とされる。
1945年4月の時点で、トルーマンは原爆の完成予定を知っていた。
1945年6月01日、ジェームズ・バーンズ国務長官の報告を聞き、トルーマンは原爆投下を決断した。
1945年7月16日、米国はニューメキシコ州で初の原爆実験に成功する。
1945年7月17日、ドイツのベルリン郊外・ポツダムで米・英・ソ3国首脳による会談(ポツダム会談)が始まる。ポツダム会談の期中に、トルーマンに原子爆弾の製造完了が
伝えられた。
1945年7月24日、トルーマンは、8月10日までに日本に対して原爆投下を繰り返し行うよう指示。
1945年7月25日、トルーマンは日本への原爆投下命令を出す。
1945年7月26日、ポツダム宣言が発せられる。
1945年8月06日、広島に原爆が投下される。
1945年8月08日、ソ連が深夜に日ソ中立条約の一方的な破棄を宣言。9日午前零時にソ連軍が対日参戦。
1945年8月09日、長崎に原爆が投下される。
1945年8月09日、我が国政府は、御前会議で「国体の護持」を条件にポツダム宣言の受諾を決定し、10日に連合国に伝達した。
1945年8月15日、 天皇自身によってポツダム宣言受諾の決定を日本国民に知らせる玉音放送(ラジオ)が行われる。

以上を振り返って見ると、我が国のポツダム宣言受諾が、米国による原爆の投下や
ソ連の参戦に促されたことは間違いない。が、米国による原爆投下は、我が国のポツダム宣言への対応とは関係なしに実行されたことが解る。つまり、原爆を投下するまで
我が国を降伏させない、そしてソ連が参戦する前に原爆を投下する。これがトルーマン政権の基本的姿勢であった。

「ポツダム宣言」は、別名「米、英、華三国宣言」とも呼ばれる。これは、会談に加わっていたソビエト連邦(ソ連)が、我が国に対して(条約上)中立の立場をとっていたため、
宣言に加わらなかったからである。
また英国代表は、直前の総選挙の結果、ウィンストン・チャーチルからクレメント・アトリーに変わっており、アトリーは選挙後の後始末のために不在だった。中華民国代表の蒋介石もポツダムにはいなかった。
つまり、米、英、華(中)、3カ国代表のサインは、トルーマン一人によって書き上げられたのであった。

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米国は、日本の文化財に敬意を表して京都を爆撃しなかったというが、これも真っ赤な嘘である。

原爆の投下候補地は、
①直径3マイルを超える都市
②爆風により効果的に破壊できる地形を持つ都市
③8月までに通常爆弾による爆撃を実施していない都市
だった。
つまり、正確に原子爆弾の威力を測定するため、通常爆弾との被害の違いを区別できることが必要条件であったのだ。

これに適うのが京都、小倉(北九州市)、新潟、広島、長崎で、中でも盆地状の京都市街は申し分なかった。そこで、原爆投下の照準点は京都駅に近い梅小路機関車庫に
定められ、京都に対する通常爆撃の禁止命令が出された。おかげで、古都の街並は
原爆投下用に保存されたのである。
ところが、米陸軍長官ヘンリー・スチムソンが京都案に強硬に反対したため、最終段階で京都は第一候補からはずされたが、「日本の文化財に敬意を表したから京都を爆撃しなかった」というのは嘘なのである。
広島も爆撃されなかったし、小倉、新潟、長崎も、他の大都市に比べればほとんど無傷だった。ちなみに、長崎は第二候補だった。が、広島とともに第一候補にされた小倉
上空が曇りであったために、長崎が標的になったのである。

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以上からすれば、広島の平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に刻まれた「過ちは繰り返しませぬから」の主語は米国のはずである。いや、米国でなければならない。
にもかかわらず、「国際民衆法廷」の主催者のような「原爆投下という大惨事を招いた
当時の日本政府と昭和天皇にも被爆者の方々に対する責任の一端があると私たちは考えます」という輩が、未だに我が国には存在する。

私は米国を、日本のかけがえのない同盟国だと思っているから、いまさら米国を責める気持ちはない。「国際民衆法廷」のように、当時の米国指導者を糾弾するなんて、特定の政治的意図が込められているとしか思えない。
が、こと原爆投下に関して言えば、我が国及び我が国民に非は一切ない。史上最大級の戦争犯罪を犯したのは米国である、と思っている。

関連エントリー:残忍な人たち

参照1:ハリー・S・トルーマン (Wikipedia)
参照2:ポツダム宣言 (Wikipedia)
参照3:原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島
参照4:原爆投下、米元大統領らに「有罪」
参照5:「原爆神話」からの解放-「正義の戦争」とは何か-
参照6:原子爆弾
参照7:東京裁判(極東国際軍事裁判)開廷

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2009/01/04

「反日」主義者の脳内を解剖する

今日も過去の人気エントリの再掲です。

ところで、このブログに共鳴する人は、日本国民でありながら日本国に敵愾心を燃やす人たちの心理状態がよく解らないのではないかと思います。
自分が生まれ、自分を育ててくれた国を悪しざまに言う。あるいは、今日の繁栄の礎である過去の歴史を否定し、幾多の困難を乗り越えてきた先人たちを愚弄する。
彼らは、一般的には左翼、あるいはリベラルと呼ばれます。が、これが世界的に見ると特殊なんですね。もう珍種と言ってもよい。
欧米では左翼もリベラルも国家に対する忠誠を誓います。国家を否定するのは革命勢力、つまり極左だけです。ところが我が国は違う。それで自分は「正しい」と思っているのだからどうしようもありません。
要は、日本人としてのアイデンティティーを喪失したコスモポリタン、根無し草が彼ら日本の左翼でありリベラルなのです。

今日は、日本国民でありながら日本国に敵愾心を燃やす人たちを、いくつかに類型化して批判した過去の人気エントリを再掲します。
第4弾、「反日」主義者の脳内を解剖する(2008/01/30)。これを読めば、理解不能と思われる日本の「左翼」、つまり反日主義者をいくらかでもご理解いただけるのではないかと思います。

「反日」主義者の脳内を解剖する

皆さんは、日本人でありながら日本の近代史を否定し、日本という国を特定の外国勢力と歩調を合わせながら攻撃する「反日」主義者を理解できないでしょう。
そこで、元「反日」主義者の私が、彼らの脳内を皆さんに解説して差し上げたいと思います。

「反日」主義者は大きく分けて三つのタイプがあります。一つは共産主義イデオロギーが源にあるタイプ。次が被差別部落出身者や在日系の人たち。そして、創価学会に代表されるカルト系の組織に属している人たち。

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共産主義はインターナショナルですから、この思想を信じる人は、そもそも国家を超越しているんですね。共産主義は、究極的には国家が死滅するとしています。そこでは階級だけではなく、人種や民族や歴史の違いに関係なく絶対的な平等社会が実現するんです。
「各人はその能力に応じて働き、必要に応じて与えられる」、こんな夢みたいな(ありえない)社会が共産主義社会です。だから、共産主義者にとって資本主義体制は打倒すべき対象でしかありません。資本主義の国家は“悪”です。愛国心も、民族としての誇りも、能力が正当に評価される社会もすべて否定されます。

で、共産主義者は、この資本主義体制、資本主義国家を打倒するためにはあらゆるものを利用します。もともと国家を超越しているわけですから、外国勢力と組むのも当たり前。
レーニンの「帝国主義戦争を内乱へ!自国帝国主義の敗北を!」」というのが典型でしょう。祖国が戦争している、祖国が窮状にある、それを利用して革命を起こそう、これがレーニン主義です。
だから共産主義者が、反国家=反天皇=反日となるのは当たり前。彼らが「国を愛している」と言うとすれば、それは自己矛盾、欺瞞です。

共産主義者は、日本共産党や、彼らが「トロツキスト」として攻撃する中核派や革マル派だけではありません。社民党や新社会党も同じです。
そもそも、社民党や新社会党の前身だった日本社会党は、非日本共産党の共産主義者(戦前の労農派)が中核でした。新社会党は、今でも社会主義革命を目指しているし、北朝鮮を賛美しています。社民党も社会民主主義を標榜していますが、西欧の社民党とはまったく違います。
西欧の社会民主主義とは、一国を基礎とし、資本主義の枠内でその「ひずみ」を修正する主義です。つまり、自由な競争を前提としながら、その中で富の再分配や基本的人権を重視する。もちろん、国家の安全保障については保守と同じ立場に立ちます。
それからすれば、大企業を敵視し、愛国心を否定し、自衛隊を「悪」とみなし、国家の安全保障を放棄する日本の社民党は、「共産主義者まがい」と言えます。

新社会党はもちろん、社民党も本音は「反天皇」です。現体制を否定するのが彼らの思想の根源ですから、外国勢力と組むのも、しごく当たり前のことなのです。

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被差別部落出身者や在日系の人たち、この人たちにとっては差別に対する「怒り」が日本という国に対する「恨み」になっています。
部落解放同盟(解同)は、昭和天皇を「裕仁」と呼び捨てにし、昭和天皇を「戦犯」として糾弾しています。
彼らは、部落差別を国家の体制によるもの、つまり天皇制が「差別の根源」とみなしているわけです。これは在日系の「朝鮮人差別」に対する認識も同じ。
だから、彼らにとっては、反差別の闘争が反国家=反天皇=反日となるのです。
ただ、実態は単なる利権の獲得闘争ですが。

しかも、この解同、朝鮮総連や北朝鮮と近いから危険ですね。また、教育現場に介入し、同和教育なるものを強制している。いわゆる「人権擁護」教育ですよ。
で、この解同に同調する教師がけっこういるんですね。広島県では県教組も県高教組も解同と一体、なんと新社会党を支持しているのですから驚きです。

同和教育、同和対策が、かえって差別を助長している、それに気付かないふりをしているんですね解同は!
もう「差別」がないと生きて行けない組織に堕しています解同は!
要は、差別を食い物にしている。
つまり、彼らの反国家=反天皇=反日は、差別を食い物にする運動と表裏の関係にあるということです。
で、この解同を「関係団体」として公式ページに掲示している民主党。この政党の中に「隠れ社民」がいることの象徴でしょう。

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ところで、被差別部落出身の「反日」主義者といえば、野中広務自民党元幹事長を思い浮かべる方がおられるかもしれません。
が、この方、単純な「反日」ではありません。

戦後、すぐに共産党員になり、その後に転向して、今度は反日本共産党の急先鋒になりました。が、1999年、北朝鮮を訪問した時、錦繍山記念宮殿において「ご生前中に3度にわたりご会見の栄を得ましたことに感謝し、金日成主席閣下の不滅の遺徳が、朝鮮民主主義人民共和国の永遠の発展と日本国との友好発展の上に、大いなるお導きを願い、永久不変万年長寿をお祈りいたします」と記帳しています。
つまり、この人物も「非日本共産党の共産主義者」だったわけです。
ところが、この野中氏、「日の丸」「君が代」の法制化に尽力しています。また、解同に対しては距離を置いている、というより批判的