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■AA77はペンタゴンに接近したが、衝突していない(再掲)
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2008/8/30(土)
15:09
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911テロでアメリカン77便(AA77)はペンタゴンには激突していない。といっても、損傷部が小さすぎる、残骸が少なすぎるというような印象の話ではない。フライトレコーダーの記録に基づく、科学的な論証である。
旅客機にはフライトデータレコーダー(FDR)とコックピットボイスレコーダー(CVR)の2つが搭載されており、総称してブラックボックスと呼ばれている。911テロに使用された4機のうち、データが回収されたのはペンタゴン突入機(AA77)のフライトデーレコーダーと、ピッツバーグ郊外に墜落機(UA93)のコックピットボイスレコーダーの2つだけだ。
UA93のコックピットの音声は、飛行機に乗らなかった20人目のテロリスト、ザカリアス・ムサウイの裁判でも証拠として使用されている。遺族に音声を公開したときには存在しなかった、アラビア語の「アッラーアクバル(神は偉大なり)」が含まれていることから、捏造が疑われている。(参照:「撃墜された」ユナイテッド93:その証拠と証言の数々)
一方、ペンタゴン激突のフライトデータの方は、2006年8月に情報公開法を使い、「Pilots for 911 Truth」という航空パイロットのグループが国家運輸安全調査委員会(NTSB)から生データ(バイナリーデータ、コンマ区切りファイル、シミュレーションビデオ)を入手するに至った。
今年に入ってからYouTubeやGoogle Videoで、左の写真のようなビデオ投稿されるようになったが、これは運輸安全調査委員会が提供した、AA77の飛行経路のシミュレーション・ビデオだ。
右の写真の赤線は、911独立調査委員会の公式発表による突入ルートだ。時速800キロで、高速道路のランプポスト5本をなぎ倒して、ペンタゴンの1〜2階にほとんど水平の角度で突入したことになっている。
ところが、運輸安全調査委員会(NTSB)のシミュレーションでは突入角度が「赤線」からずれている。そこで、入手したバイナリーデータを解析した結果、「青線」のルートを飛行していることが明らかになった。公式発表ルートと比べ、方位が15度ほどずれている。真相究明グループの電話質問に対して、NTSBは回答を拒否、FBIは「実際の北と、磁北(磁石の北)には差があり、補正されていないのではないか」とはぐらかしたという。しかし、補正がされていないとすれば、離陸した時点から方位がずれていることになり、そもそもペンタゴン到達することができない。
フライトレコーダーは激突の約1秒前でデータが切れている。この最後の記録ログによると、
高度は82m(273ft)、
機体の仰角は−5.3度(=下降中)。
また、フライトレコーダーとは別に、レーガン空港の管制塔レーダーがAA77便の位置を捉えており、この高度のときのペンタゴンからの水平距離は288mだ。
機体の角度が「−5.3度」で維持されたと仮定すると、ペンタゴンに到達するまでに 288m×tan(5.3)≒26m だけ下降し、高度は82m−26m=56mになる。
一方、ペンタゴンの敷地の海抜は12m、建物の高さは23mなので、ペンタゴンの屋根の海抜高度は35m。また、ランプポストの長さは12mなので、その頭部分の海抜高度は24m。ランプポストは言うに及ばず、ペンタゴンの天井をかすることも難しい。
仮に公式発表通りの赤線ルートを飛んでいたとして、時速800キロの機体をランプポストの高さに押し下げるには、9G(重力の9倍)の力が必要。旅客機にかかる重力は−2G〜+6Gなので、9Gは不可能だという。しかも落下したあとは地面に衝突せずに、水平飛行を維持してペンタゴンの1〜2Fを目指さなければならない。
青線ルートを裏づけるかのように、ガソリンスタンド「Citgo」(写真の下端近く)に立っていたペンタゴン付きの警察官2人が、左側に航空機が飛んでいたことを「Pilots for 911 Truth」のメンバーにビデオで証言している。
AA77便は管制塔のレーダー画面からいったん消えており、航空機のすり替えなどが疑われていた。しかしながら、レーダー情報と今回のフライトレコーダー情報は比較検証でほぼ一致しており、(データの改竄がないとすれば)AA77がペンタゴンに接近していたことは間違いない。
以上の事実から整理すると、
1)AA77は青線ルートを飛んで、ペンタゴンに衝突せずに隣接の空港に着陸した。
2)写真の赤線ルートには別の飛行物体が飛んでいた。
という見方が有力になる。ただ、データの改竄がないにしても、フライトレコーダーを現場検証の証拠の中に忍ばせた工作や、データの最後の部分を消去した工作はあったということになる。
「Pilots for 911 Truth」のビデオプレゼンはいままで要領を得ないものばかりだったが、イギリスの大学に在学中のCalum Douglasが6月8日にロンドンのインディアンYMCA(Fitzroy Square)で行った講演は、快刀乱麻の明快さだ。本日のエントリの基礎データは、彼の講演ビデオから抜粋している。
ペンタゴンにボーイング757のAA77便が衝突したことはあり得ないという論証をじっくりとご覧あれ。
■追加1:今回の記事の英文資料
New study from Pilots for 9/11 Truth: No Boeing 757 hit the Pentagon(2007/6/21)
■追加2:ペンタゴンを素通りしたあとに想定されるルート

Google Earthから作成してみた。ペンタゴンの屋根をギリギリで通過したあとに、レーダーに映らない程度にやや高度を上げ、川を回りこんでレーガン国際空港に着陸。
■追加3(2007/10/14):偽装AA77便はホワイトハウス上空を通過
上記の着陸ルート写真は面白半分で貼ってみたが、いくらなんでも時速800キロの航空機がこの経路で着陸することは不可能と思われる。素通りした場合の延長線上にホワイトハウスがあり、9:50ごろに「謎の白い飛行機」がホワイトハウス上空を飛んでいる映像が、2007年秋から話題になっている。
ペンタゴン近くの目撃証言では、機体はアメリカン航空のシルバーやグレーではなく、ホワイトだったという民間人の証言が5件。これとは別に、機体は下降ではなく上昇していたという証言も確かにあり、ペンタゴン素通り説を裏付ける。「この白い飛行機はAA77を追跡していたC−130」という話は、かく乱情報だろう。ホワイトハウス上空を通過した謎の白い飛行機ははっきりと機体が映っており、C−130ではない。PentaConサイトはこれを軍用機「E4B」と断定する。http://www.thepentacon.com/Flight77.htm
写真は2007年秋にCNNで放映されたビデオクリップ。映像ソースは
http://video.google.com/videoplay?docid=2604879952877158021。
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2008/11/18(火)
19:14 :
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今さらスイマセン(通りすがり)
2008/9/25(木)
Zeitgeist II(Shoon)
2008/10/18(土)
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■『Why Beauty Is Truth』:数学における対称性の歴史について
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2008/8/25(月)
14:53
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「美」「真実」という言葉が出てくると芸術論を期待してしまうが、純粋に数学と物理学のお話だ。美術における対称性(シンメトリー)は主に鏡像の左右対称のことだが、数学の対称性は「ある変換を行ったときに、変換後も状態が変わらない場合」の変換性を指す。
正三角形は、120度、240度と回転させても状態は変わらない。おでんのように串刺しにしてクルリと180度回しても見かけは元のままだ。そのような操作と結果の集合が示すふるまいをあれやこれやと研究していたところ、群論(Group Theory)が生まれた。五次方程式の一般解が代数的に解けないことを証明したのも、ガロアやアーベルの群論だった。
五次方程式が解けようが解けまいが、二次が解けたから次は三次だ、そして四次だ・・・という数学者の頭の中のお遊びに過ぎなかったものが、過去200年弱の間に大いに発展し、相対性理論や量子力学を説明し、いまや重力と電磁力などを統合する「大統一理論」や「超ひも理論」の最先端を走る理論となっている。
ある演算を考えて、その結果を「百ます計算」のようにマトリックス表に書き出してみる。その結果が対角線をはさんで対称になったときに、オォーと何らかの美を感じるかどうか、あるいはよくある話じゃないのと素通りするのかどうか。
私の配偶者はほとんど何も勉強した形跡がないのに、ゼネコンの都市計画で活躍するようになった建築士だが、やはり数学のセンスが私とは違うものだなぁ〜と感心したことがある。
代数で「A×B=B×A」という交換法則がある。大人になってみれば常識の「3×5=5×3」だが、小学2年生のときに九九表を見て、これにピーンと反応したかどうか。私はまじめな性格なので、1の段、2の段、3の段とすべてをセッセと暗記したものだが、わが配偶者の場合は、
2×2、2×3、2×4、2×5、2×6、2×7、2×8、2×9
3×3、3×4、3×5、3×6、3×7、3×8、3×9
4×4、4×5、4×6、4×7、4×8、4×9
5×5、5×6、5×7、5×8、5×9
6×6、6×7、6×8、6×9
7×7、7×8、7×9
8×8、8×9
9×9
を暗記して終了である。「1」を含む掛け算は群論でいう「単位元の演算」なので、これもすべて省略する。そうすると本来の九九=81種類の演算は36種類に減少する。つまり小2にして群論の奥義と対称性の美に目覚めた人は、その後の数学人生の歩みが異なるのではないか・・・とぼんやりと考えている私である。(単なる賢いナマケモノに過ぎないという解釈もある。わが配偶者はイギリスに来るまでただの1度も英和辞典を引いたことがないという、トンデモのツワモノですので・・・)
数学的美学の探究は、物理的真実の探求に貢献するかどうか。この数百年の数学と物理学の発展関係を整理すると、「数学的な美」は「物理学の発見」に大いなる手がかりを提供している。物理的真理を究める上で、数学的な美は「十分条件」ではないが「必要条件」となっていることを否めない。
そしてこの「数学的な美」の中心にあるのが「対称性」だ。数学は非ユークリッド幾何学であれ、群論であれ、数学者がルールをつくって、その枠組みの中で遊ぶ世界だ。一方の物理学は、相対性理論であれ、量子力学であれ、自然(神)がつくったルールを探求し、その枠組みの中で遊ぶ世界だ。この2つの異なる世界が「対称性」を媒介にして限りなく接近する理由はどこにあるのだろうか。
『Why Beauty is Truth - History of Symmetry』の著者は、バビロニアの二次方程式、ギリシャの三大難問、三次・四次・五次方程式、ガウスの正十七角形作図、複素数平面、四元数、相対性理論、プランク定数、シュレディンガー方程式、結晶構造、次元の意味、ゲージ対称性、クオーク、超ひも理論、リー群、八元数などを説明した後に、数学と物理をとりもつ「対称性」について神秘的な問いを発しているが、その問いに答えていない。

宇宙の根源や究極の物理法則を探れば探るほどに、数学的な対称性に急接近するのは、おそらく宇宙の始まりが対称的な存在だったからだろう。写真(ネットより借用)は、12月にわが家の食卓を飾っていたものとそっくりなブロッコリーだ。これを例えに使うと、宇宙はもともと無数の対称性を持つ球体のような存在であったが、次第にキャベツのようになり、いくつかのパターンを繰り返しながら、次々と分化してブロッコリーのような多様性を演じているのではないか、ということだ。
「対称性の破れ」という言葉を使って説明する方法もある。
1) 人間は自然の一部であるがゆえに、ある対称性のパターンに美を見い出すように出来上がっている。
2) 自然や事象の多様性や複雑性とは、元々単一かつ不変であった対称性が次々に破れて展開した“なれの果て”だ。
3) 複雑性が展開する前の状態を突き詰めようとすると、必然的に“対称性”が絡むシンプルな法則に導かれていかざる得ない。
数学と物理の対称性は、「人の命の非対称性」や「ニュースの重みの非対称性」のように日常生活のレトリックとしても使われている。対称性の美と真理に目覚めた人は、社会学や日常生活のウソや飛躍を見破り、真理に迫っていく力を兼ね備えているという“拡大解釈”は、さて、果たして可能であろうか。
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2008/11/16(日)
13:32 :
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素晴らしい科学コラム!(ピンちゃん)
2008/11/16(日)
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■短調の音楽は「暗い、悲しい」という三位一体の短絡思考(再掲)
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2008/8/24(日)
15:00
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中学生のときのこと、「短調の音楽は暗い・悲しい」という友人に、「いや短調にも明るい曲はある」と反発したことがある。ステレオタイプ的なことを言う友人に対して、天邪鬼な私がしゃしゃり出たわけだが、ではどんな短調が暗くて、どんな短調が明るいか、その後しっかり考えたことがなかった。
で、4年前からピアノを始めた私だが、弾く曲が幼い子供の気質や心理にどんな影響を与えてしまうのか、いくぶん気を遣わざるを得なくなった。自分の心情にあう、大好きな曲を弾けばそれでいいのよ、と居直りたいところだが、わが子を通わせているシュタイナー小学校では、小1の音楽は長調のペンタトニック(5音階)から始まり、短調の曲は小3まで導入しないことになっている。
私のピアノのレパートリーは、竹内まりあの『駅』から始まった。短調だ。2曲目は簡易版の『スケーターズ・ワルツ』で長調だったが、3曲目はリヒナー『忘れな草』で短調。4曲目はマリー『金婚式』で短調、5曲目はシューベルト『楽興の時・第3番』も短調。6曲目のスコット・ジョプリン『Magnetic Rag』はかろうじて長調だったが、最も入れ込んだ7曲目のバッハのバイオリンソナタ・チェンバロソロ曲は短調で、その後、延々と短調が続く・・・という具合だ。
短調といっても、転調で長調に変わる曲は山ほどある。3曲目のリヒナー『忘れな草』は、私のこと忘れないで・・・と悲しい響きで始まり、そういえばあのときは楽しかったわと、しばし明るさを取り戻すものの、最後は私のことを忘れないで・・・とせつなく終わる。4曲目の『金婚式』も結婚50年目のわびしい曲で、中間部の転調では華やかな舞踏会を髣髴とさせるような長調があるが、最後はやっぱり50年目のじいさんとばあさんという感じで終わる。
最近わが家のBGMはバッハからモーツァルトに移行してきたが、モーツァルトのピアノ協奏曲(12枚組みCD)を全部聞いて見たら、32曲のうち30曲が長調でびっくりした。モーツァルトの器楽曲は80%強が長調だそうだが、一方、平均律の父バッハの場合は、器楽曲307曲のうち長調155曲・短調152曲とほぼ半々だ。モーツァルトで「頭がよくなる」かどうかは知らないが、私としては気分が軽快になる。
モーツァルトを掛けたからといって、電球が明るく灯るわけでも、壁の明度が上がるわけでもない。長調はどうして“明るく”、短調はなぜ“暗い”のか。曲全体の明暗や癒しの効果については論考が壮大になってしまうので、ここでは和声コードの長調・短調のもとになっている、長三和音(ド・ミ・ソ)と短三和音(ド・ミ♭・ソ)に限定して考えてみることにする。
■■■■■■十■■■■■■
音楽心理学によると、長調和音の「ド・ミ・ソ」は明るく響き、ドが主音(根音)になるという。音の周波数の比率は「ドソ」の完全五度のときは「2:3」、「ドミ」の長三度のときは「4:5」だ。この2つの比率を合体すると、
ド:ミ:ソ = 4:5:6
という美しい比率が出来上がる。この数学的なシンプルさが実際の響きにどう影響しているか。音を1オクターブ高くすると、周波数は2倍になるという「1:2」の関係を組み入れてみると、ドが主音であることがわかる。
任意のドの周波数を1としてみる。1オクターブ上の「高いド」の周波数は2となる。ドソの関係は2:3なので、続くソの周波数は3だ。「もう1つ高いド」の周波数は4で、そこからドミソの和音を鳴らすと、4:5:6の周波数で響く。
ド1、ド2、ソ3、ド4、ミ5、ソ6。
手許にキーボードがある人は、左手で「ド1、ド2」のオクターブ、右手でそれに続く「ソ3、ド4、ミ5、ソ6」の和音を同時に鳴らしてみてほしい。調和感・統一感がとても大きいはずだ。それもそのはず、一番左の「ド」の倍音だけを鳴らしたからだ。「ド2、ソ3、ド4、ミ5、ソ6」は、ド1の2倍音、3倍音、4倍音、5倍音、6倍音という同族関係になっている。
キリスト教が「三位一体だ!」と喜びそうな構成だ。主の音「ド(Dominus)」をエイヤーと2倍にしてみたら、神の子「ド」が生まれた。3倍でもう一丁と試してたら新しい「ソ」が生まれた。5倍では「ミ」も登場した。ド×2=ド、ド×3=ソ、ド×4=ド、ド×5=ミ、ド×6=ソ、と表してもよい。
つまり、ドミソの和音を弾くと、2オクターブ下のドが根音になって全体を統一している。
□□□□□□卍□□□□□□
一方、「ドミ♭」の短三度は「5:6」の比率だが、「ドソ」=「2:3」と組み合わせると、
ド:ミ♭:ソ = 10:12:15
となり、シンプルさに欠ける。全体の調和が崩れてくる。さて、この和音に主音は存在するのだろうか。
完全五度が「2:3」の関係なので、ミ♭の完全五度下の音はラ♭となり、「ラ♭:ミ♭=8:12」の関係になる。オクターブは「1:2」の関係なので、1オクターブ下のラ♭は4、2オクターブ下は2、3オクターブしたは1となる。
ラ♭1、ラ♭2、ラ♭4、ミ♭6、ラ♭8、ド10、ミ♭12、ソ15。
つまり、ドミ♭ソの和音で敢えて根音を探すと、3オクターブ下の「ラ♭」になってしまう。3オクターブなので音の距離が遠い上に、和音の構成音(ド・ミ♭・ソ)以外の音が中心音になってしまう。
長三度和音から短三度和音に移行すると、
シンプルな調和を崩し、複雑性が大きくなる。
主音が明確な「明在系」から、主音が隠れた「暗在系」になる。
このような「不調和」や「隠れた音」が人間の心の琴線に触れると「不安感」を誘発し、「暗い」「悲しい」と表現されるのではなかろうか。
■■■■■■十■■■■■■
私が短調のわびしい曲が好きだった理由は、ピアノを弾きながら「癒されたい」からだ。仕事や日常生活、人間関係のストレスで疲れた気分を、よしよし、と慰めてほしい。家族や友人がわかってくれなくっても、あなたなら私のことをわかってくれる、ピアノさん、好きよ、ありがとう。
では、こういう侘びしい曲を、赤ちゃんや年少の子供に毎日のように聞かせてもいいものだろうかということだが、とりあえずの結論は、やはりほどほどにしておけ、である。「癒しの曲」といっても、大人の都合で癒しているだけで、聞かされる子供にはいい迷惑かもしれない。四七抜き(ファとシを抜いた)短調の演歌や、「さくら〜、さくら〜」の都調(みやこちょう)の短調、さらに短調が圧倒的に多い子守唄や民謡もさて、どうであろうか。
短調が「不安感」を誘発する理由は、ラから始まる旋律の上行音階と下行音階が異なることも関係があるかもしれない。上りと下りで段差が異なる階段は、つまづきそうでちょっと怖い。また、長調を「major」、短調を「minor」という言い方からもわかる通り、短調はもともと非主流派・少数派であり、「ものごとに長短あり」と解釈するならば欠陥音階なのだ。
しかしながら、調和を乱したり、隠し味をもっているからといって、「短」絡的になってはいけない。「ド・ミ♭・ソ」の和音の根音が、3オクターブ下の「ラ♭1」だとすると、この和音はドのすぐ下の「ラ♭8」とも親和性が高いはずだ。(これをオクターブ類似性という。)試しに「ラ♭8、ド10、ミ♭12、ソ15」を弾いてみると、これはラ♭で始まる長調の「セブン・メジャー」コードではないか!
つまり、調和を乱したかに見えた短三度和音は、ジャズなど現代音楽で使用されるセブン・メジャーの導入でもあるわけだ。ここから発展して、九度、十三度のコードが登場すると、もうゴッタ煮で何でもありになっていくが、英語で「I feel jazzed」(ワクワクする)という表現あるように、三位一体から脱出すればラララな世界が待っているのだ。
■追加のつぶやき:
子供の前の短調の曲はやめろという配偶者と、私が情熱を燃やして好きでやっているのに、何の問題があるの!と一時期、家庭内騒動があった。仲裁に入ったピアノの先生は「弾いている人が生き生きと輝くのなら、子供はそのエネルギーを受けるのだから、それでいいんじゃないですか」と私を応援した。
その一方で私自身、考え直した。1日に1〜2回ならばそこそこ気持ちがいいが、5回、10回と弾くと深いウツ状態を誘発し、気分が悪くなる短調の曲が確かにある。上手になりたい思いで何度も弾くわけだが、五万とあるピアノ曲から自分はどうしてその曲を選ぶのか、なぜ共鳴するのかと考えると、「好き=自虐、義理、中毒、見栄、テクニック」の場合もある。ゆえに音楽に対する内面の感受性には繊細でありたい。特に小さい子供の場合は、音楽が体に一発で浸み込むので、さらに繊細でありたいと思うわけだ。
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